力の使い手になれない人が無理に社会参加することのヤバさ


社会参加するとは、権力に巻き込まれるということ

支援対象者は、社会に順応するより前に、まず支援メニューに順応しなければならない。 それぞれの団体や支援者は、一つひとつが「思想=権力」を生きている。 どんなにフレンドリーな関係にも、見えない枠組みや抑圧が機能している*1。 これは、誰が支援者になろうと同じ。
支援者は、一定の順応スタイルを無自覚に(いつの間にか)支援対象者に突きつけている。 その順応スタイルに馴染めなかった者は、支援の場からも排除されてしまい、本物の「被排除者」になる。 社会に参加しようとする以上、この権力の問題は避けられない。 ▼ひきこもるとは、家族の庇護によって権力への曝露を回避することと言える。 それは事実上、家族を本人の権力に巻き込むことになっている*2。 《交渉-契約》というモチーフは、臨床的な意義と同時に、権力関係の調整という意味を持つ。


社会に参加できているということは、それだけいくらか権力を持っている

権力のない人間は、家に住んだり、お金を獲得したり、自分の意見を通したりできない。社会参加を目指すということは、権力の使い手を目指すということ。社会順応は、徹頭徹尾「権力」の話題だ。

どういうスタイルの権力に順応し、どういう権力を使うのかは、信仰する宗教を選ぶようなもの

信仰したいと思う宗教がない*3。 それでも社会に参入するとは、多かれ少なかれ洗脳されること*4。 そこで「脱洗脳」は、社会参加を続けるかぎり継続的な課題になる。 私は、「信仰」ではなくて、「脱洗脳」の取り組みをこそ共有したい。 これは、「いちど資本主義の矛盾に気づいてしまえば、それで脱洗脳は完了」というような話ではない。 固定的な社会理解をベースにした党派への参入は、それ自体が新たな「入信」だ。 また、「ひきこもり経験者であること」や、「ひきこもりに興味があること」は、それだけでは関係継続の理由にならない。

    • 【追記】: 「力(power)」と「権利(right)」の周辺で、勉強したり考え直したりしています。 斎藤環さんは「ひきこもる権利」と言ってしまうのですが*5、簡単にそう言い切ってしまっていいものでしょうか。 この言い方は、既存学問に照らしてどう評価すればいいのでしょうか。 権利についても権力についても、濫用(abuse)があり得ますが…。



ひきこもる人の多くは、社会に順応しようとすることが、「バカ正直に順応する」という形をとる以外にない。 社会に参加しようとするときに、そういう作法以外に知らない(そのことが、社会参加を徹底的に難しくしている)。
本物の交渉弱者にとって、再び社会に参入することは、「身近な人間に支配される」ことでしかない*6赤木智弘は「希望は戦争」と言ったが、誰かが始めた戦争が目の前の関係を変えてくれさえすれば何とかできるとは限らない。 本当に必要なのは、巻き込まれた支配と洗脳の関係を、具体的にマネジメントできるようになることだ。

それができずに人間関係に参入しようとすることが、どれほどヤバいことか*7。 これは、単に「コミュニケーション・スキル」という問題ではない。 関係をマネジメントしてゆく、その《創る》という要因の不能こそが、決定的にマズイのだ*8。 これがどれほど致命的であるかに、ほとんどの関係者が気づけていない。 気づけていないから、《社会に順応しよう》という、最終的な着地点ばかりのひきこもり論になる*9。 「社会不安障害」云々のレッテルも、着手して取り組んでゆく要因に役立てられるかどうかの問題なのに。

私が脱洗脳や制度分析、「個人の政治化」といったことを再三強調するのは、すべて《創る》という内側からの要因にこだわる故だ。 逆に言うと、ここのポイントを外したひきこもり論は、苦しんでいる本人側からの取り組みの問題を排除している。 そこで支援者は、ご自分の社会順応を「解決済み」と思っているのだろう。 順応の問題は、この瞬間にもご自身の問題であるだろうに。

ひきこもり支援の本当の困難と専門性は、ここにある――私の議論は、ここに徹底的に照準している*10。 「斎藤環 vs 反精神医学派*11」の対立や、社会学系の議論は、こうした最もデリケートかつ核心的な要因を扱えていない。 「内側からの」要因を無視した臨床論には、暴力的な順応主義しかない。





*1:最初はフレンドリーに見えた支援者も、ご自身の当事者性を突き付けられると、激怒を始めることが多い。 ご自分の順応事情だけは、分析してはならないことになっている。 あるいはそのような分析を維持することは、孤立した多くの被支援者にとって難しい。

*2:たとえ、夜中に冷蔵庫をあさることしかできなくとも(参照

*3:実際に複数の集団に関わってみて痛感しているが、左翼系の集団は、本当に宗教的だ。 中心でその場を仕切っている人間は祭司であって、批判することは許されない。 その集団のたてまつるイデオロギーを神聖視することが要求される。 ▼逆にいうと今の私は、神聖視の度合い(脱洗脳が許される度合い)で、その場を判断するようにしている。 属性としての弱者カテゴリーを神聖視し、それを恫喝的に押し付けるような関係は最悪だ。 いわば、気付かないうちに儀式に参加させられていたわけだ…。

*4:ひきこもっている人は、すでに徹底的に洗脳されていて、その頭にインストールされた規範にがんじがらめになっている。 それゆえ本当の問題は、「これから何に洗脳されるか」ではなくて、「すでにどのように洗脳されているか」だ。 完遂された洗脳は、洗脳とは意識されない。

*5:『和樹と環のひきこもり社会論』(50)、「いくつかの前提の確認」(『ビッグイシュー第97号掲載)を参照

*6:矛盾するようだが、こうした事例では、極端な従順さと、極端な傲慢さが同居している。カルト的な硬直にあるために、時間軸に応じた柔軟な正当化の風通しが生まれていない。

*7:ここで私は、具体的なケースをいくつか想起しながら論じている。

*8:参照:「作られる社会」(梅林秀行)。 梅林氏は現在、『京都ARU』の代表をされている。

*9:そうした状況では、私がどうしても必要だと考え、自分で試みているような「ひきこもりをめぐる言説の豊饒化」は、その価値を認められない。 言説の貧しさこそが苦痛の温床だというのに。

*10:これは同時に、人をカテゴリー分類する「差別」の問題とも関連している。 左翼の多くは、人を支援することを、人を差別的に分類することとすり替えている。 それ自体があからさまな差別だ。 ▼ここでも、「語っている左翼自身」の順応問題が棚上げにされている(参照)。

*11:東京シューレ芹沢俊介高岡健など(参照

嗜癖化は、「場所の危険」を主題化しない

斎藤環は、洗脳されていることを問題にしない、「順応状態への嗜癖」を勧めている。むしろ、積極的に「洗脳されろ」と(参照)。被洗脳推奨としてのひきこもり臨床*1。 彼は、オタク的没頭やラカン理論への信仰を告白する。ガジェット遊びを推奨するだけで、政治イデオロギー嗜癖する左翼をバカにしていればいいと思い込んでいる。そもそも嗜癖そのものがまずいのであって、左翼イデオロギーへの嗜癖だけをバカにしていればいいのではない。斎藤環には、嗜癖と洗脳のプログラムしかない。あとは、「自由な個人は、肩書を離れてフレンドリーに同席できる」と本気で思い込んでいる。人が複数同席した場所には、目に見えない力関係が、すなわち順応のゲームがあることを、リアルタイムに分析することを禁じている*2。 オタク的なおもちゃ遊びを共有しようとしているだけで、患者側がみずからその状況を分析する権限は許していない(自分自身がそういう分析をしていない)。 彼はオタクとして、「ひきこもりオタク化計画」をしている。(参照


私が上でスケッチしたような、素朴な順応しかできないような人間が、「モラル・ハラスメント」系の人間と同席するのがどれほど危険なことか。――この点については、ジャーナリストで訪問活動をされている石川清が、2005年6月のKHJ全国集会(参照)で次のように発言している(大意)。

 ひきこもりといっても、本当に内向きに思いつめてしまう引きこもりと、事実上のボーダー(境界性人格障害)がいる。この両者を同席させるのは、きわめて危険だ。単に仲が悪くなるだけでなく、ボーダー側の挑発に引きこもり側が苦しいエネルギーを内側に溜め込んでしまい、ある日突然爆発してしまう。実際問題、刑事的な事件が起こってしまうのではないか。

 支援スペースの問題として、「ひきこもり型と非行型は同席させてはならない」(参照)ということ以上に、「ひきこもり型とボーダー型」は、繊細な問題になる。支援者との間だけでなく、支援される側どうしの人間関係においても、理不尽な支配が生じる。――「ひきこもりオタク化計画」だけで、ご自分のミッションを「仲間ができるまで」としてしまう斎藤環は、たまり場そのものに生じる問題をそれ自体として扱うことができない。ご自分自身を医師の役割に監禁してしまい、自分の順応問題を棚上げにしてしまうからだ。



*1:80年代消費文化的な相対主義

*2:左翼的に、「お前は医者だから」とスタティックに告発して終わらせるところにも、分析はない。 それは自分を告発主体にするアリバイ作りでしかない。