「順応」と《過剰性》

ひきこもり当事者の熱意が、心情主義(「努力」「気合」「一生懸命」)*1になるのはまずい*2。 ほぼ間違いなく長続きしない。 「スキャンダラスな過剰性(反復強迫)」の社会的措定でなければ。 心情主義では、当事者側が自他を「説教する」ことになってしまう。 それでは「社会的なもの」=「想像的なもの」でしかなく、お互いに縛り合うことでしかない。 ▼当事者界隈の人間関係が、ひどく「想像的(鏡像的)になりやすい件について。 ▼ニートやフリーターに「説教する」のは論外としても*3、「構造的排除だ」という言説も、いまだ「順応」ロジックでしかないのではないか。
属性として「ある社会的スティグマを得ている」ということのみでなく、「異様に興味がある」*4という反復的な過剰性もあるのではないか【「属性当事者である」ことは、社会的な過剰性?】。 ▼支援を考える際、当事者を「抱擁」するタイプは、属性を帯びた「存在としての当事者」は受容しても、「言葉の欲望」レベルでの過剰性は受容しない。 言葉のレベルを見ずに、存在レベルだけを全面受容する態度は、運動遂行において必要な局面はあるが、それ自体としては、支援者の「支援している」というナルシシズムに終わる危険がある。 【逆に言えば、属性当事者だからと言って抱擁=全面受容すべきものではない*5。】 ▼当事者性とは、過剰性を意味するのではないか。 ナルシスティックな「言い訳」でしかないものと、反復強迫レベルにあるものと。 《過剰性》の、社会的・精神的な絡まり合い。 ▼フロイト反復強迫はトラウマ=過剰性の問題だったが、私にとっての「原体験としての被災」は、どう扱えばいいか。



*1:むしろ規範の強迫観念化が問題だ。

*2:やれる人は、「努力」を支えるメカニズムが無自覚に成立済みということか。そもそもそれは倫理的に選択すべきだろうか。――これこそが「要再考」だ。

*3:マルセル・モースの言う《贈与》を、想像的(imaginary)ではなく、反復強迫の文脈で考えることはできないだろうか。 さもなければ、やはりこれも「贈与せよ」の説教になってしまう。

*4:それは「能動的に」記述される欲望だが、むしろ受動的な「避け難さ」(can't help 〜ing)と言っていい。「興味を持つのをやめられない」。▼「語られないことをやめない」何か(ラカン)。

*5:ミクロな支援としては。 制度設計は別の問題。

「異様に自由」(traumatic freedom)

「1万円札があってもおにぎり一個買えない」のが、異様に自由だった。 《日常》が壊れて、死と隣り合わせだけど、自分を縛るものがない。 息をするのに、「自分の肺で呼吸している」実感。 規範に締め付けられた無感覚の呼吸ではない。 ▼「蛇口をひねっても水がでない」状況が、規範を無化した。 何もないところに、他者といっしょに放り出されている。 私は、当たり前のように「社会活動」した。 ▼「それ見ろ、ひきこもっていても、生死が懸かったら働けるんでしょ」と言われた。 「兵糧攻めにも効果がある」という意味だろうが、「社会規範が温存されたまま自分だけ飢える」*1のと、「ライフライン=規範が破綻し、地域住民全体が飢える」のでは、状況がまったく違う。 震災時に重要だったのは、「飢える」ことと同時に、「日常が壊れた」ことだった。
私は今でも、精神的にヤバくなると、「今は被災時だ」「対策会議の最中だ」と思い込む。 すると、神経症的空転が治まり、すこし楽になる。



*1:斎藤環氏は、社会的ひきこもりを「状態像への嗜癖」(「苦しくても抜けられない」)として語っているが、薬物依存で言う「底つき(hitting bottom)」というモチーフは、ひきこもりでも絶対に無視できない。→ これも、「強迫観念的合理性の破綻」として理解できないか。