言説化

自分でも途方に暮れているのだが、僕はみずからを当事者的にできない、はっきり言えば「ひきこもり」に関連付けることのできない話題をそれ自体として論じる能力が、ほとんどまったくない。 政治や経済の「テーマそのもの」を抽象的に論じようとして、異様にくだらない言説を出してしまったことが何度かあって・・・・。


ネット上(MLなど)でも何度かあるし、いちばん痛恨なのは、『教育』という雑誌(図書館などにあります)に提出してしまった原稿。 3年ほど前だが、体調をひどく崩し、1文字も書けないまま迎えた〆切り当日に必死で書き上げて送信した原稿を、体力回復後に読み直して頭を抱えた・・・・。*1
それ以後、何かを論じようとする時に、いつもこの時のことを思い出す。 「体調が悪かったから」というのは、自分自身への言い訳でもあって、本当は体調が良くても、「抽象的には」書けない人間ではないか。
問題を考えたり取り組んだりする時の入り口に、理念的なものを設定することがどうしてもできなくて、自分の体験情報、それも最悪の傷口みたいなものを問題にするところでしか、あるいはそれを通過させるところでしかものを考えることができない。


他者の言説と絡むことの難しさも、なんかこの辺にあるような気がするのだが・・・・。



*1:以後、『教育』関係者の方からは一度もご連絡いただけませんが、あれでは当然です・・・・。 申し訳ありませんでした。 ▼〆切り当日、原稿が書けていないことを担当の方に申し上げると、「大丈夫です、今回は見送りましょう。体調のことなのだからしょうがないですよ」と優しく言っていただいたというのに、無理に1日で書き上げ、かえってご迷惑を・・・・。

正当化の手続き

研究者が踏襲すべき「発言の作法」と、当事者の踏襲すべきそれとは、もちろん違っている。
研究者言説が評価されるときの基準と、当事者言説が評価されるときの基準は違う。
ちがうけれども、「当事者だから」何を言っても評価され尊重されるべきだ、とは全く思わない。 当事者であることにあぐらをかくだけのくだらない言説には全く興味がない。 → 自分自身をも追い詰める。
6月のイベントで、僕は「当事者」として、樋口明彦さんは「研究者」として招かれる。 参加させていただくにあたってのパスポートが違う。 「ひきこもり経験者」という視点からは、樋口さんには資格がない。 「研究者」という視点からは、僕に資格がない。 求められている情報価値が違う。


樋口さんは、僕の当事者的な――内面吐露的な――発言についても、明確に反論をくれる。 それはいつも示唆的で、僕にとっては非常に貴重な体験になっているのだが、そもそもお互いの公的なポジションを考えれば、これはとても重要なことに思える。


当事者が自分の実存を賭けて喋ったことに、「研究者」は≪反論≫してはならないのだろうか。
当事者が勉強すべき学問もあれば、研究者が賭けている実存もあるはず。
その対話構造を探るところで、なにか硬直的な役割意識を打破できないか。