傾向

 あらためて考えてみるに、僕の興味はやはりトラウマとかPTSDに還ってくる。でもそれは、直面するのがつらいテーマ。歴史的いきさつと同じく、周期的に「見るもおぞましい」話題となる。
 人間の現象経験は外傷的なものである、と一人ごちてみたところで、このテーマはなかなか言葉を豊かにしてくれない。考えれば考えるほど言葉を失ってゆく。言葉を失ったところで行動に移せばよいのだろうか。しかし基本的な指針が要る、そのために理論的に考えてもみる。精神分析・・・。自分に必要な言葉のジャンルは何か。ジャンル自体を創出せねばならない予感。

ひきこもり

 ひきこもりというのは、それ自体が最もつらい、外傷的なテーマ。「ひきこもり」という語自体が嫌気を催す。支援活動に関わって、その支援活動自体が僕にとって外傷的な経験となった。斎藤環氏によると、「熱心な支援者ほど、早くに燃え尽きる」。ひきこもりというのは、危険なテーマなのだ・・・。

言葉

 自分の言葉を語って、そこで他者たちと交わってゆく作業がどうしても必要になる。自分なりに充実した言葉を語り出す努力・・・。しかしそのためには執着がないと。欲望が消えてゆく、それにともなって言葉も消えてゆく。言葉の消失とともに、欲望も消えてゆく。この悪循環。
 執着を取り戻すには、何か熱いところに触れた言葉が不可欠だと思うのだけれど、その熱い部分というのは最も外傷的な部位でもある。ひどく難しい、もちろん自分ひとりだけの都合では語れない。実名で「ひきこもり当事者」として本を出したことが招いたもろもろの事。当事者たちは、多くは本を読まない、ネットにも接続していない。
 お互いの執着が刺激しあわないと・・・。

死期

 酒と抗鬱剤睡眠薬をやめたら、みごとに全く眠れなくなって、体重がずいぶん減った。外出したら、フラフラ。自分の肉体の骨格や肉の組織が嫌に生々しく意識される。もうあまり長くないなぁ、などと考える。宮城の「ひきこもり餓死事件」がまた身に迫ってくる。

  • 『網状言論F改』(東浩紀・編著、青土社
  • 『トラウマティック・ストレス』(ヴァン・デア・コルクほか、誠信書房

 安易な「癒し」に結びついたトラウマ物語がつまらない、という東氏らの指摘はうなずけるが、もちろんだからといってトラウマという問題系自体が消失するわけではない。ひとまず沈黙をもって受け止めつつ、しかし沈黙に沈んでしまわないようにすること。
 オタクの人たちに比べても、ひきこもりの人たちの言葉はとても貧困で、弱い。ネット上を見ていても単発的なグチをいくつか散見するぐらい。
 「とにかく家を出ろ」という説教に反発を覚える人は多いし、実際ひきこもり状態にある多くの人は「命がけで引きこもっている」、あるいはいざとなったら死ぬつもりでいる。それはいいのだけど、言葉が弱いままに留まっているというのは、やはりまずいと思う。――そしてその事情が、トラウマ・サバイバーの置かれた状況と重なる。