ここ最近失語症のような状態にあった。リハビリのようにしてこの日記を書いてみる。
厳しさ
執着のないところに内発的な厳しさはない。
言葉
自分の言葉を語って、そこで他者たちと交わってゆく作業がどうしても必要になる。自分なりに充実した言葉を語り出す努力・・・。しかしそのためには執着がないと。欲望が消えてゆく、それにともなって言葉も消えてゆく。言葉の消失とともに、欲望も消えてゆく。この悪循環。
執着を取り戻すには、何か熱いところに触れた言葉が不可欠だと思うのだけれど、その熱い部分というのは最も外傷的な部位でもある。ひどく難しい、もちろん自分ひとりだけの都合では語れない。実名で「ひきこもり当事者」として本を出したことが招いたもろもろの事。当事者たちは、多くは本を読まない、ネットにも接続していない。
お互いの執着が刺激しあわないと・・・。
本
安易な「癒し」に結びついたトラウマ物語がつまらない、という東氏らの指摘はうなずけるが、もちろんだからといってトラウマという問題系自体が消失するわけではない。ひとまず沈黙をもって受け止めつつ、しかし沈黙に沈んでしまわないようにすること。
オタクの人たちに比べても、ひきこもりの人たちの言葉はとても貧困で、弱い。ネット上を見ていても単発的なグチをいくつか散見するぐらい。
「とにかく家を出ろ」という説教に反発を覚える人は多いし、実際ひきこもり状態にある多くの人は「命がけで引きこもっている」、あるいはいざとなったら死ぬつもりでいる。それはいいのだけど、言葉が弱いままに留まっているというのは、やはりまずいと思う。――そしてその事情が、トラウマ・サバイバーの置かれた状況と重なる。