和樹と環のひきこもり社会論(35)

(35)【参加資格の流儀上山和樹

 やや飛躍して聞こえるかもしれませんが、ここで問われているのは、参加資格のロジックだと思うのですね。それで、そこで与えられた参加資格によって、自分をどう作り上げればいいかも決まる。
 「31歳のフリーターである自分にとって、希望は戦争にしかない」という赤木さんの文章が皮肉なのは、彼は戦争にならないまま、この文章によって雑誌に参加し、今までとはまったくちがう社会参加のチャンスを得たことです。また、「戦争はそんなに甘いもんじゃない」と説教する人たちは、どう考えても赤木さんよりいいポジションにいて、社会が激変しなくても、こういう説教をしていれば社会に参加していられる身分であることを、パフォーマンスとして見せてしまった。それぞれのプレイヤーは、それぞれのチャンスと流儀で参加の資格を得て、でもそのすべてが、「どうせ何も変わらない日常の風景」に見える。
 ひきこもりの問題も皮肉というかジレンマなのは、明確に「病気」と診断されれば「ああ、この人は病気なんだな」と役割(居場所)ができるのに、病気ではないのでトラブルになる(そもそも本人が、「病気ではない」ことにこだわる)。「ひきこもり」という単語が流通してからは、ひきこもりと名乗れる人こそが居場所をもらえるということで、「誰が本当の引きこもりなのか」というどうしようもないケンカもたくさん起きた。
 「社会に登録されていない」わけです、ひきこもってる人は。そして、一度ひきこもってしまうと、再登録が難しい。
 この私たちの往復書簡も、斎藤さんは「ひきこもりを専門とする精神科医」で、私は「ひきこもりの経験者」でしょうか。――ややシニカルに聞こえてしまったらすみません。でも、その「参加資格がどのように発生しているのか」というところで、全員が自分の状態を検討してみる必要があると思うのです。斎藤さんのおっしゃる「個人・家族・社会との関係性」というのは、そういう話なんだと思います。