和樹と環のひきこもり社会論(33)

(33)【《日常》という抑圧と、「診断」】 上山和樹

 精神科医である斎藤さんが、「診断」という医療行為の限界を語っておられることに注目したいと思います。そもそも、「人を診断する」という行為の意義と限界について、距離をとって考え直す人が少なすぎる。ほとんどの人は、「発達障害」「社会不安障害」というカテゴリーを無批判に受け入れてしまうか、逆にそうした診断をアレルギー的に毛嫌いするのみです。
 ここで、ずっと気になりつつ、医学というジャンルでは扱いようがないと感じている話を書かせてください。阪神・淡路大震災で被災したときのことで、私にとっては原体験になっています。
 うちの近所では電気だけがすぐに復旧し、ガスと水道は3週間ぐらい止まったままだったのですが、水道の蛇口をひねっても水が出ないことに気づいたとき、奇妙なことに「自由だ!」と思い、ものすごく興奮した。あと、お金が使えなくなったのですが(物流が止まった)、それもなんというか、意味がわからないほど自由だった。
 強いていえば、《日常》が壊れた!という感じです。変な比喩ですが、「誰のものでもない空気を、自分の肺で吸っていい」という、根源的な許可をもらった感じ。まわりでたくさん人が亡くなり、食事もできず、風呂にもトイレにも行けない。ものすごく危険で、ものすごく「不便」なのに、《自由》なのです。
 私はこのとき、それまで顔も名前も知らなかった地域住民たちと、いきなり助け合いました。倒れたタンクを起こしにいき、物々交換し、見ず知らずの人が無償で物を分けてくれる。本当に感動的だった。ところが、数週間してライフラインが復旧すると、もうお互いに声もかけられません。あのせちがらい《日常》が、帰ってきました。
 当時は私以外にも、社会適応できないタイプの人が炊き出しなどで活躍したそうです。逆に、いつもはきちんと会社勤めをしていたお父さんたちが、途方に暮れて何もできなかったとか。――このあたりに、斎藤さんのおっしゃる「状況依存的な症状」の、ヒントがありませんか。