私はずっと、
- アカデミズム
- 当事者≒マイノリティ
- 運動体
この3つの触媒みたいなことをやっているつもりだったのですが*1――そういう曖昧な(というか、それぞれの境界に立とうとする)努力は、どの領域からもあまり歓迎されません。それぞれの属性領域は、それぞれなりの《忠誠》を要求してくるからです。
拙論は今回、アカデミックな学会誌に載せていただいたので、その領域での何らかの約束事を満たしているはずですが――これは一部の「当事者」「運動体」からは、反発されることでしょう*2。しかし論考の内容は、既存の学術言語への疑念の表明をも含んでいます。
私はそもそも、問題意識を役割と事業とで固定されること、そのものを問題にしています。
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- (1)【学術】:ディシプリンを拠り所に、「ベタにメタ言説をやる」
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- (2)【当事者】:自分を名詞形で《当事者》と規定し、「私は当事者だから」のフレームに守られ続ける。これはこれで、みずからの言説を「安全圏としてのメタ」に囲い込む。(学者や運動体からは文句を付けられないことになっている)
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- (3)【運動体】:「名詞形《当事者》を守るために」を硬直的な大義にし、自分の言説を絶対化する(メタに温存する)。
(1)〜(3)はいずれも、ディテールの生成に直面するという意味での当事者性を抑圧しています。つまりこれらは、そのままでは、
みずからが素材的一端を担いながら具体的ディテールを生きざるを得ない部分である
という意味での、おのれの当事者性を見ない。 そのことを通じて、
他者もやはり、具体的ディテールに直面せざるを得ない
そのことで他者独自の生成を生きざるを得ない
――その意味での、他者の当事者性
を抑圧する。
私の提案は、《技法》という回路を通じて、
言説そのものに動詞形の当事者性を回復しようとする試みです。