内在的な分析が、紛争生産的であること

すでになされている関係性や仕事に、「入る」こと。
閉じこもり状態をめぐる支援は、まずは「外から内を」目指す。


しかし「入った」あとにも、場所や関係性への怒りはあって、
これは「入る前」に抱いていた怒りとは変質している。


閉じこもる人は、すでに自宅という場所に「入って」いるので、
その「すでにいる場所」で体験する怒りが、新しい回路になり得る。*1


閉じこもっていてすら、すでに何らかの関係性と理解言説の「中に」は居る。*2


論じる自分は、どういう言説や関係性の《中に》いるか。
そこから、どういう言説や関係性に入らねばならないか。
どういう分析を、(触媒的に)生きる必要があるか。


――こうしたモチーフは、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で紹介された「制度分析」に関わる。ただし、それがうまくいかない状況について、周囲への規範的糾弾に終始するわけにもいかない。



「私は制度分析できているが、あいつらはできていない」という言い方は、

    • (1)それを言う自分も出来ていない(というより、どうやら生身の人間には難しい)という意味で、相手のみを糾弾するのは欺瞞であり、
    • (2)ヒステリックな規範的糾弾に終始している時点で、技法的取り組みの敗北となっている。*3


《内/外》をめぐる内在的分析は、「それをやらねばならない」という信念とは別に、とても難しい。制度分析の唱道者たちですら、自分の話となれば、分析はぶつかり合う。――内在的分析と見えるものをあるていど進めることができても、それは紛争を生じさせるようなものになる。(いわば「ミクロな階級闘争」の発生)*4


紛争を回避しようとすれば、分析は諦めざるを得ない
――そこに留まるしかないだろうか。



*1:そのときには、《ご家族の怒り》との関係も考えざるを得ない。

*2:扶養関係の「中に」いるのでなければ、生き延びていない。▼また、何らかの専門家言説に「入門」して、かえって状態が悪化するのは定番となっている。――専門家言説の多くは、その言説そのもののありようによって、事態を悪化させるものでしかない。あるいは言説の基本体質そのものが、新しい入門を(心身症的に)排除することがある。

*3:技法的取り組みの敗北を、「スピノザ的内在性の敗北」と理解してはどうだろう。

*4:階級闘争という語のもとに為される議論の多くは、ここで私が試みに言うような「ミクロな階級闘争」を抑圧して成り立つ。「史的唯物論」の硬直したイデオロギーは、紛争的な分析生産を弾圧してしまう。つまりそれは、(右派や宗教と同じく)内在的な分析を禁圧する。