制度化の受動的時間を肉的にあつかう

廣瀬浩司氏のツイートより:


最後の部分、

「ああそうか、あのとき」っていうフラッシュバック的な再体験を言語化する生産性

――これは、ラボルド的《制度分析》生成の、受動的性格に重なる。*1



最中には何を体験してしまっているか気づかなかったが、
あとになって「ああ、そうか!」と腑に落ち、強烈な感情が襲ってくる。
その《気づき》は、受動的に沸いてくる。*2


廣瀬氏はこの受動性を核に据えつつ、
「技法」という、意識的ふるまいの用語を持ち出している。
上記引用ツイートの最後の部分をもう一度:

  • 制度化とは、「ああそうか、あのとき」っていう再体験を言語化する生産性。
    • あのときから積み上げられた「生の技法」が制度の媒介だが、
    • 制度化を語る技法がない。

「生の技法」は、媒介、つまり過程にかかわる。
それが「積み上げられる」というのは、表現として分かりにくい。
とはいえ、これは日本語の慣例が、能動と受動を、あるいはここで廣瀬氏が扱おうとしている《制度化》を論じるのに、うまく しつらえられていないことに「も」よるだろう。


制度化を語る技法がないのは、(フランス語や日本語に限らず)言語そのものの限界だろうか。それとも、「今はないが、これからの努力しだい」だろうか。

とりあえず気づくのは、

    • 「生産性」と語られている通り、制度化は動詞的で、労働にかかわる*3。ところがそもそも「制度」概念には、動詞的要因がうまく含まれていない(過剰にスタティックで名詞的)。
    • 「技法」「媒介」には時間の要因があるが、制度概念は、時間をうまく扱えていない。制度化は、イデア的静止画像なしの、時間軸を外せない《生産の動き》であるはず。
    • 制度化においては、超越と内在を安易に切り分けられない。制度化は、単なる超越でも単なる内在でもない。
    • 制度化の時間は、数字に置き換えられない。時間を「肉的に」語る言葉のスタイル(生産様式)が要る。



必要なことを語ろうとするのに、単語や言葉づかいの工夫が不可欠に思える。



*1:ラボルド的制度論の異様な伝わりにくさは、この受動的性格がその一因だと思う。

*2:廣瀬氏は「フラッシュバック」という、思うに任せない受動的体験を表わす言葉を使っている。

*3:労働における受動性が、疎外ではなく、むしろ内的必然であり得る――それを形にするのは、ものすごく大変でもあるけれど。ジャン・ウリは「ただ働き」と言っている(参照)。