《党派性≒超越論性》を不可視にする、あれこれ

以前には何度か議論をご一緒したこともあるお二人ですが(参照)、なんと、
私が提案したグァタリ・ラボルド周辺の問題意識は、黙殺されています。


こだわるべきだと思ったのは、たとえば以下のご指摘でした。*1

松本卓也 ラカンは母子関係は母と子の二者関係であることは一度もなく、そこにはつねに最初から第三項としてのファルスが関わっていることを強調しています。つまり、母体的システムの運動以前から、実は超越論性の萌芽としてのファルスはすでに駆動している。ここが重要です。つまり、経験論から超越論が発生するといっても、それは経験論においてすでに超越論的なものが経験論を下支えしているからなのです。これはカントによる経験的、先験的=超越論的の対立の導入以後、近代哲学が暗黙の前提としてきたことです。



ラボルド周辺では、超越論的なものが「うまくいっていない」、その不調から新生の分節が生成する――だから、超越は創発の形でしか生きられない――というあたりが焦点なので、

  • (1)あらかじめ理念として超越を立てたり、
  • (2)「経験の場はあらかじめ超越的なものに支えられている」とする議論とは、

鋭い対立に入るはずです。


私はいずれも、制度論との関係で整理し直す必要を感じています。
あらかじめ建てられた制度を絶対視するのはあり得ないとしても、
《制度化》と呼ぶべき運動について、どう理解し直せばよいか参照1)(参照2


あるいは以下の問いは、具体的な技法論です。

志紀島啓: 僕は逆に超越がないと相対的に強い私人が幅を利かすと思います。地元のボスや地回りのヤクザみたいな輩が。あるいは正当性や公平性といった原理原則を欠いた好き嫌いの感情だけで物事が決まっていくのではないだろうか? それこそ猿山の猿みたいにボスの座を争ったり、縄張り争いがあったり。

トラブルの多くにおいては、法も警察も役に立たない。
では、どうするか? 泣き寝入りしないなら、自前の策が必要です。


そもそもこの対談は、

  • スキゾ・解離・発達障碍など、さまざまに語られたような状況があるとして、処方箋としては、どうすればよいのか?

をめぐっているはず。 これは、問いとして残されたままでしょう。*2


フェイスブックについてのご指摘には、やや強引さを感じました。

松本: 「いいね!」しかないんです。つまり、解離のように「否定しなくていい」自由があるのではなくて、もはや否定はアーキテクチャとして強制的に無効化されているんです。なんというディストピア的な閉塞でしょうか。
志紀島: 何か不幸な出来事、例えば「親が死んだ」とか書いてるのに「いいね!」ボタン押されたらどんな気持ちになるでしょうね?
松本: だから、一般的な傾向として、フェイスブックには皆、無難なことしか書かなくなります。いわゆるフェイスブック五大テーマ、「面白写真、ラーメン、誰と会った、ペット、子供」です。

FB 友達の構成にもよるのだと思いますが、
私のニュースフィードでは、皆さんの「活動報告」がとても大きな比重を占めますし、死亡報告などの悲しいお報せにも「いいね!」がたくさん付いていて、違和感がありません。
たしかに FB は「リア充向け」とよく言われるようで、明るく朗らかな報告が望まれるようですが、それを言うなら、私は自分が10代だった80年代以来、ずっとリア充系の話題に苦しめられています。
「反論がしにくい」というのは、ネットや2010年代に関係なく、以前から問われているはず。つまり党派性の内部では、もともと「いいね!」しか許されなかったわけで、アーキテクチャは、それを可視化しただけとも言える。
いずれも、「さいきん強まった」ように言われることには、大きな違和感があります。


本質的なのは、こうした話題も含め、《党派性》ではないでしょうか。
アーキテクチャだけが支配する環境とは、党派性をもはや問い直すことが出来ないという意味でこそ、ディストピアなのです。*3
そう考えたときには、お二人の対談が依拠するフランス系の議論そのもの――あるいは、さまざまな知的潮流のすべて――が、論じる自分たちの党派性をほとんど話題にできていない。それはつまり、論じる場そのものがどのように成立しているかを論じられていないという意味で、「いいね!」しかない環境なのです。
この対談がパフォーマティヴにあぶり出しているのは、知的言説そのものが、超越論的なものを不可視にする作法(その一例)ではないでしょうか。
逆に言えば、党派性を問い直しやり直すような議論こそが、真に必要なスタイルで、超越を生きることになるはずです。*4




……と、言い出せばいろいろありますが、
私も自分の問題意識をうまく仕事にできていないので、
今回読ませていただいたものを、発奮材料にしたいと思います。
お疲れ様でした。



*1:本エントリの引用における強調部分は、すべてブログ主による。

*2:積極的な技法としての schizo-analyse は、制度論との緊張関係にあります(参照)。

*3:たんなる「棲み分け」は、問い直しの禁止です。

*4:たんに「党派性はいけない」というのではなくて、党派性は、場合によっては固定させるべきです。――固定や改編の必要・タイミングを詳細に扱う技法こそが、ラボルド的な《制度論》です。