『ビッグイシュー(168号)』に、中島岳志氏と、
『お寺カフェ』*1、『彼岸寺』*2 の松本圭介氏 の対談が掲載されている(参照)。
仏教については、虚無をめぐる考え方がずっと気になっているのだが、
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- 父が死んだときの葬儀屋と僧侶が、あまりに耐え難い人たちだった
- 俗世秩序を単に肯定し、変革を否定する抑圧思想ではないかという疑念*3
などから、少なくとも現存する社会インフラとしては、「巻き込まれてはたまらない」と思っていた*4。
以下、上の記事より(強調は引用者):
中島岳志: 私は今36歳なので、20歳の時が95年なんですね。松本さんは?
松本圭介: 79年生まれ、31歳です。
中島: 95年にオウム真理教事件と阪神大震災があったんですが、私はポストモダンの延長上にある思想に非常に違和感を覚えていて、親鸞とか保守思想みたいなところに軸足を置いていったんです。松本さんが学生だった90年代後半は、どうだったんですか?
松本: ニーチェとかが好きだったんです。ポストモダンにも入っていったんですが、要はポストモダンて何もしてないというか。
中島: 着地点がないんですよね。
松本: そうなんです。おもしろいし、なるほどなということはたくさんあるけれど、少なくとも自分が生きていくうえで活力になっていくことには、答えてくれない。その点、仏教はそこが原点なんです。
中島: ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。だから脱構築して宙吊り状態で生きろと。でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。そこがポストモダンを乗り越える一つの入り口になるんじゃないかと思ったんです。
ここで語られていることは、
20世紀後半のフランス思想に触れた多くの人が感じていると思うし、私も簡単に返事ができない。 1000年間持続するインフラやコンテンツになれないなら、刹那性をいう思想それ自体が刹那的に消費されて終わる。