描線

廣瀬浩司後期フーコー 権力から主体へ』p.303 より(強調は引用者)

 コンスタンティン・ビザンティオスというギリシア生まれの画家の1974年の展覧会に寄せた論考「ビザンティオスの黒い光線」*1においてフーコーは、独自のデッサン論を展開する。 ビザンティオスのデッサンにあるのは、沈黙と言語、現れと消失の戯れなどではなく、「線(ligne)」と「描線(trait)」との闘争である。 描線の限りない連鎖、それは描線が否定的なものとなってしまうこと、すなわち「線」による形式化を回避するための限りない闘争である。 (略)



無時間的でメタに居直った「線(ligne)」に対し、
逃げられない身体時間をごまかさない「描線(trait)」。
どんな抽象論をやろうと、その身体は本物の時間を逃れられない。
全肯定/全否定の両極処理でなく、描線を調べ直せるスタンスが要る。


「線(ligne)」のつもりをしたところで、どうせ「描線(trait)」になっているのだ。
描線でしかいられないからこそ、お互いにとばっちりを掛け合う。
免許などないのに、線ではないから、関わってしまう。


誰もかれもがこの現象に帰ってきて続ける、
それはなんと残酷なことか。




*1:«Les rayons noirs de Byzantios», Trente dessins de Byzantios, Galerie Karl-Flinker, 25, rue de Tournon, Du 15 février au 16 mars, Le Nouvel Observateur, n° 483, 11-17 février 1974, p. 56- 57 (廣瀬氏による注、p.334より)