廣瀬浩司『後期フーコー 権力から主体へ』p.303 より(強調は引用者):
コンスタンティン・ビザンティオスというギリシア生まれの画家の1974年の展覧会に寄せた論考「ビザンティオスの黒い光線」*1においてフーコーは、独自のデッサン論を展開する。 ビザンティオスのデッサンにあるのは、沈黙と言語、現れと消失の戯れなどではなく、「線(ligne)」と「描線(trait)」との闘争である。 描線の限りない連鎖、それは描線が否定的なものとなってしまうこと、すなわち「線」による形式化を回避するための限りない闘争である。 (略)
- 「ここで君臨しているのは、限りない加算という原理である。負量などない。だが総量もない。勘定が合うときなどない。系列が飽和状態に達するようなときもない」(『ミシェル・フーコー思考集成〈5〉権力・処罰―1974‐1975』p.67)
無時間的でメタに居直った「線(ligne)」に対し、
逃げられない身体時間をごまかさない「描線(trait)」。
どんな抽象論をやろうと、その身体は本物の時間を逃れられない。
全肯定/全否定の両極処理でなく、描線を調べ直せるスタンスが要る。
「線(ligne)」のつもりをしたところで、どうせ「描線(trait)」になっているのだ。
描線でしかいられないからこそ、お互いにとばっちりを掛け合う。
免許などないのに、線ではないから、関わってしまう。
誰もかれもがこの現象に帰ってきて続ける、
それはなんと残酷なことか。