• 読書や聞き取りをすればするほど、私が引きこもり関係者で体験したトラブルは、そのまま他のジャンルでも繰り返されていると気づく。 固有名詞より、トラブル構造が重要。
  • 「ひきこもりは社会のせいだ」では、すべて他人事。 「ひきこもり支援には現状の社会参加が反復する問題点が繰り返されてしまう」とするほうが、必要な議論ができる。 自分を当事者化しながらしか語れないから。(右翼も左翼も、責任を相手のせいにしかしない。体験構造の反復に自分が加担していることを論じられない。)
  • 「世間は間違っているが、私だけは正しい」では、自分のはまり込んでいる生産構造を論じていない。 正当化努力のスタイルそのものに妄念がある。
  • ひきこもりをもたらす主観性のパターンは、それをそのまま肯定しても、つながりを生み出す形をしていない。 つながりの可能性は、努力指針のレベルでしか論じられない。(多くの人は、旧来社会の主観性のパターンに舞い戻るだけ。)
  • 《つながりかた》にこそ狂気がある。