承認――プロセスと結果

数学の証明では、それが「プロセスであるから」と合意されることはない。数学的分節はあくまで「結果」が検証される。最終的到達点が「正しいかどうか」で初めて合意がなされる。


ところが制度分析では、プロセスがプロセスであることそのものがまず肯定されなければならない。それが「福祉的である」ということ。「取り組んでいる」というだけで、その臨床的意義を認める。 才能がなくても「数学をやっている」だけで安らぐことがあるとして、それは精神療法として意味はあっても、証明内容に同意することはできない*1。 承認されるとすれば、それは「結果的な内容ゆえに」であって、「患者さんのプロセスだから」ではない。


思考や制作の分節過程を中心化することは、精神科臨床としては意味があっても、分節された内容(論文や作品)が、それ自体として承認されるわけではない。 ⇒「プロセスを評価する」という、この臨床的な位置づけ自体が集団的な合意を得るかどうか*2


福祉は、結果物の再分配という以前に、「プロセスをプロセスとして受け止める」ことにある。そのプロセスは、出される結果は間違っている(ろくなものではない)。しかしプロセスとしては肯定する、それが福祉。


たとえばリーマン予想がそうであるように、取り組むことで精神的・社会的につぶれてしまう難問がある。 ⇒結果をシビアに問うことは本人への福祉に反するが、本当にすごい結果がないのであれば、転移は起きない。転移なき世界は、経済の必要だけでなく、人類の福祉に反する。そもそも合意形成が起きない。(魅力のない、間違った内容にどうして承認を再分配しなければならないのか)*3

  • 全体主義とは、転移が起きていなくても転移が起きていることにしてしまうこと。 「転移しないことは許さない」。 感情労働ならぬ転移労働。(これが福祉の領域に蔓延していないかどうか)
  • 相互転移による集団形成が理想だが、それは無理。 私たちはお互いに間違いだらけであり、ろくなことを口にしていない。 集まりをつくっても、合意形成ができない。 トラブルばっかり。



承認の問題を、結果物ではなくプロセスに照準したのは、重要なアジェンダ設定になる。しかしプロセスへの承認は、まずはケアと親密圏のあり方であり、公的には結果の質が問われる*4。 結果物に魅力がないのにプロセスに注目しろというのは、承認してあげること自体が強制労働になっている。
⇒「プロセスの尊重」というテーマを、既存のジャンルや議論にどう繰りこむか。それ自体がきわめて過酷な「結果を要求される課題」である。「プロセスの尊重」というテーマに取り組む者は、プロセスの尊重を許されない。結果を出せなければ、この議論はたんに消えていく。消えるのを拒絶するのであれば、「魅力を感じてもらえる結果」を出さなければならない。



*1:「本人にとって意味があるよね」という取り組みプロセスへの承認でしかなかったはずが、いつの間にか「全員が同意すべき正しい内容が語られている」にすり替えられてしまう。 ▼素人が難問に取り組む数学談義が肯定されるのは、「本人のためになっている、よかったね」のレベルであって、議論内容そのもののレベルではない。

*2:人間は、結果とプロセスを往復し、対立や合意をくり返しながら生きるしかない。そのことを、臨床設計のレベルで受け止め直すこと。

*3:政権与党への福祉的配慮として政策に同意する、というような

*4:「公私」テーマと、「結果/プロセス」テーマの交錯