考えてしまっていたこと

iPS細胞というのは、「受精卵 → 体の細胞」を逆にしたようなもので、
たとえば皮膚の細胞から、どんな臓器にもなる万能細胞が作れるらしい。


考えてしまったのは、これの物理学バージョンはできないだろうか、ということ。
晩年の芥川龍之介は、「神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう」とつぶやいている(参照)。 現代物理学では、宇宙が生まれる前の、時空間すらない無の話が出てきたりするけど(参照)、「そこから物理法則や時空間まで産み出すことができるような、万能の特異点みたいなものって、実現できないんだろうか。 そんなものがあり得るなら、100万回生まれ直してでもその実現に尽力したい*1


「現実が、こうでなければ良かったのに」には、いろんなレベルがある。
「天才に生まれたかった」「べつの時代に生まれたかった」などから、「そもそも人間じゃなくて、猫に生まれたかった」「いや、生き物じゃなくて、鉱物に生まれたかった」などなど。
物質科学や社会科学の発展によって、多くの人が健康で豊かに生きられる現実にしたいけれど、そもそも私たちは、なんでこんな過酷な初期条件を押し付けられているんだろう*2。 個人レベルの条件だけじゃなくて、血袋でしかないような体の仕組みや、心の仕組みについてまで。 時空間というこの体験の形式も、もう少し生きやすいものに出来なかったのか。


虐待や犯罪被害の記憶に苦しむ知人は、「脳ミソを入れ替えたい」という。 覚えていたって、何の価値もない記憶なのだから、脳をまっさらにして、健康そのものの人格でやり直したい。――臓器を再生するiPS細胞の話を聞きながら、「脳髄は?」と思わずにいられなかった*3。 たいていの記憶には、価値なんかない。 そしてそもそも、この現実は何も “覚えて” いない。

ある試算によると、過去4000年間に殺された人は、30億人にのぼるという(参照)。 殺人をなくす努力は必要だとは思うが、そもそも人間は、そういうことをするように作られてしまっている。 「二度とこのようなことがあってはならない」――それ以前に、人間や時空がこんな初期条件になっていることについて、どうにもできないのか? ちょっと気を抜いただけで虐殺の証拠さえ消えてしまうような条件に監禁しておいて、なんで生身の人間にそんな努力を要求するんだ。 倫理というのは、馬鹿げた初期条件に耐えることか。


よーく考えれば、地球がいきなり爆発したって、誰も困らない*4
生命や記憶の部分的喪失は《問題》だが、全滅した人類は《問題》ではない。
単なる物質現象に《問題》はない。

      • 追記:「Pale Blue Dot」 64億キロ彼方からボイジャー1号によって撮影された、小さな青白い点にしか見えない地球の写真。



ひとまずこれは、SF的な現実逃避の妄想でしかない。 しかし、「努力の初期条件を改善できないのか」という問題設定じたいは、何らかのレベルで維持が必要だし、その究極形が、ここに記したような妄想だろうと思う。
「現実の初期条件を変える」プロジェクトが、存在しない、着手すらできない。 与えられたルーチンを生きるしかない。 そのことに、慢性的で、我慢しにくい屈辱がある。 変えられないものに、どうして取り組まなければいけないのか*5。 それは、投げやりな耽溺でしかないではないか。 《これで楽しむしかない》


何をやったところで、現実はついに現実のまま。
最終的解決ならぬ、この「最終的諦念」を抱えたままで、どんな熱意があり得るだろう。
小手先の条件を変えるとして、どう着手すれば・・・



【数時間後の追記】

  • 私がこのように考えること自体が《現実への敬虔さ》であり、
  • 現実と呼ばれるものの初期条件が変われば、このように考えている私自身が別のものになってしまうから、ここで私が記していることは、自殺願望の変奏でしかない。
  • 死滅には安堵があるが、「死んでは困る人」がいなくなることも、そういう人を残して死ぬことも、無視以外に出会えないのも耐えられない。 いまだ生きてしまっているから。
  • 自分が死んでも誰も困らないのが、基本的な条件だ。 私たちは、お互いに要らない――「してほしいこと」はあっても。 愛された人も、身近な数人が死ねばあとは誰も困らない。(宇宙の話をしながら、身近な数名でしか安心できない滑稽さ。愛情という機能の屈辱。)
  • 血袋にできるのは、《現実への直面》を堅持し、さまざまなレベルで、努力の初期条件を変えること。
  • たいていの人が生き延びるのは、「健康で、屋根のある場所で眠れて、それなりのものが食える」というような、些細な身体的判断だと思う。 逆にいうと、そのレベルが満たされれば、あとの動機づけは失われる。 だからとばっちりをかけ合う。
  • 間違って思い詰めるのはやめにしたい。 しかし、このままでは何も変えられない・・・・




*1:その作業をするための基本素材は、この時空間で調達するしかないから、どうもやっぱり・・・

*2:カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)』で、多くの人が強い感銘を受ける「反逆」の章が、ちょうどこのあたりの話です(参照)。 10代で初めてこの小説を手に取ったときから、この箇所しか興味が持てません。 それを「小説で」どうにかしようということに、興味が持てない。 ストーリーもどうでも良くて、要するに私は、物理学とか何とかの力によって、《この現実》を何とかしたい。 ところが学者も技術者も、《この現実》は放置して、それを解釈ばかりしている。 けっきょく、「この世界を受け入れられない、復讐したい」という態度から、一歩も動けない。 努力はしてもすべて惰性で、「そう考えないと破綻するから」にすぎない。 本当の愛も納得もなく、「しかたない」時間しか流れない。――そういうもの以外に、何かあるのか。

*3:映画『トータル・リコール』では、「記憶を書き換える」ことが、商業的なサービスとして描かれている。

*4:「困る」のは、まさに「誰か」、つまり人称的な生身の人間でしかあり得ない。 人類の死滅を嫌がるのは、「いま生きている人間」であって、メタを設定することはできない。

*5:フッサールハイデガーも、死ぬまでかかって何を変えたかったんだろう。 哲学も芸術も、与えられた現象への敬虔さのスタイルでしかない。(ちがうのか?)