《社会性》をどう設計するか

わかりやすい宗教の実体名ではなくて、生きようとしている社会性のスタイルの違いが、以前でいう「信仰のちがい」みたいになっている。 その意味で信仰の違う、つまり社会性のスタイルの違う相手と同席する拷問。


相手の誠意が、私にとっては許しがたい裏切りであり、
私の努力が足りないからではなくて、「努力したゆえに」トラブルになる。


ジャンルや業界を暗黙に支配する、社会性のルールがある。
たとえば引きこもり支援では、お互いのナルシシズムをそーっと大事にし合う “配慮” が、威圧的な大前提になっている*1。 これでは、相手の前提を押し付けられることしかできない。 その場で分析して、関係を作り直すことができない。 誤解を解くこともできない。 この抑圧に私は激怒している。


私にとっては、自分たちの置かれている前提や条件を考え直す時間こそが、絶対になくてはならない非日常の時間なのだ*2。 これは、《社会性》をどう設計するかという、きわめて臨床的で、かつ政治的な話だ


トラブルになったときは、相手そのものというより、相手の標榜している社会性のスタイルを攻撃していないかどうか。――むしろ、自覚的に論点をそちらに移すべき。



*1:表と裏を使い分ける《社会性のダブルスタンダード》が、この日本社会では一般的か。

*2:それなしでは生きられない《非日常》の設計のしかたが、各《社会性》のスタイルになっている。