4月3日 永瀬→上山

 『「制作過程やインフラを問題にする」ような努力が、多くの人を怒らせることそのものです。』というご忠告・ご指摘は、とても真剣に受け取りました。
 今後十分にありうると思います。
 また、私たちの間にもこういった問題は起こりうる。
 私が再三「応用ではない」といいながら、恣意的に上山様の思考を援用しているかもしれない、という事はこの企画の最中、そして今も実感としてありました。
 こういった具体的な事がどこかで発火する可能性はあります。上山様の慎重さを見習うべきかもしれません。


 若干異なった、しかしどこか似た話として、私たち美術に関わるものの世界では、「作家は黙って良い作品を作れ」というイデオロギーがあります。
 作り手が、作品批評なり美術史に意識的な発言や分析なりをすると、決まってこういう言説が現れ、一方的に怒られたり軽蔑されたりします。
 ここでは何が「良い作品」なのかが問われない。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。
 その方が作家は「純粋」ということになりますーそして勿論、もの言う(分析する)作家は「不純」と言われる。
 この抑圧は生理的なまでに美術業界の構成員に内面化されています。
 私でも未だにあれこれ考えたことを明らかにする美術家は“汚い”のではないか、という自己嫌悪を捨てきれません。


 しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。
 結果、賢い作家は黙って(目につかないところで)こっそりとそれをやるし、哀れで純真な作家は本当に盲目に、なんの羅針盤も持たず製作して99%が人生を棒にふって残り1%の宝くじに当たった作家が適宜美術業界のモードに乗ってファッショナブルに消費され数年で忘れられます。
 状況はシリアスです。

評価態勢を固定させる批評家と、「純粋でいる」ことを要求される作家。
この同じ構図が、「社会復帰をがんばる人たち」の周辺にいえそうに思います。
不登校や引きこもりの経験者は、なぜか「純粋で善意の人たち」、つまり支援イデオロギーのカモみたいになることを要求される。自前の政治的意見を持ちはじめると、支援コミュニティにいられなくなる。そしてよく考えると、社会生活が政治的でしかあり得ない以上、自律的意見の標榜が対立を生むのは、当たり前です。