自殺念慮の周辺



自分の罪悪感と、自分に思考を強いるものとの関係を考えなければならない。


どうして自分は社会に順応できないんだろう*1。 自分のせいで、家族はひどい目に遭っている。 とはいえ、順応するべきなんだろうか。

    • 「順応できるならするべきだった」というが、順応できない
    • 「順応するべきではない」というなら、しようと思えばできるのか?

順応できなさの中に、「順応するべきではない」が含まれている。 思考を強いる反復が、制度を目の敵にしつつ。 思考を強いるものに対して「我慢すればいい」というのは、むしろ倫理的ではない。 というか、生きる詮が無い。 これはワガママの問題ではなくて、むしろ去勢の問題系、謙虚さのきわみだ。


ひきこもる人は、「社会に参加していない」と言っても、すでに関係に書き込まれている。 再帰性の話は、「自分で意識するより前に生きてしまっているもの」*2を忘れてはならない。


私は、制度を使うと同時に、自分の異常さを使ってしか仕事ができない。



【追記】 自己矛盾と、制度分析

    • 多くの者にとって、「正常さ」とは「自己矛盾を放置できる」ということ。 集団が自己矛盾に支配されているときには、矛盾を指摘した者が激怒をもって排除され、異常者の扱いを受ける。
    • 単なる制度順応ではなく、単なる制度反発でもなく、いつの間にか従っている制度そのものを分析しながら参加を続けること。 単に内にいるのでも、単に外にいるのでもなく*3
    • 人間関係に入るとは、ウソやごまかしの暴力に付き合ってあげること。相手が矛盾していても、黙認してあげること。――そんな関係を拒絶し、矛盾を指摘できる関係を。おかしいと思うことを指摘できないなら、その集団や個人には関わるべきではない。――しかし、行く先々でそうだったら?
    • 「自己矛盾していてもかまわない」とは言えない。 矛盾は、それに気付かざるを得ない人間への暴力となっている。
    • 「話せば分かる」というのは大嘘。 相手が防衛とごまかしに走っているときには、話せば話すほど溝は深まる。 こういう状況を直接対話で何とかしようとするのは、それ自体がロマン主義。 対話ではなく、正当な強制力こそ必要になる*4。 それは、政治的-臨床的な要請だ。





*1:こういう問いをすることは、構造的排除や差別などの社会要因を無視することではない。自分が身近に体験している制度への順応ができない、そのアレルギー反応をどう活かせるか。酵母のような拒絶反応。

*2:それを「制度」と呼ぶ

*3:「単なる制度反発」は、それ自体がまた閉鎖的な内部を形作る。

*4:つまり、「制度を考え直す作業を、制度的に整備する」という矛盾を、真剣に考えなければならない。