「性関係はない」――去勢不安とフレーム問題

知の教科書 フロイト=ラカン (講談社選書メチエ)』 p.96 より。 執筆は立木康介氏(強調は一部引用者)。

 性関係はない!
 一瞬耳を疑うようなこのラカンのテーゼは、おそらく、何よりもまず臨床的に真理である。 精神分析家のオフィスで寝椅子に横になった人は、これ以外のことを語らないと言っても誇張ではない。
 もちろん彼らは、「性関係はない」と文字どおりに断言したりはしない。 だが、ラカンのこのテーゼが言わんとしているのは、性関係にはいかなる正解もない、ということである。 「私はどうすれば恋人を満足させることができるのか」、あるいは「私は彼(彼女)のことをいったいどうしたいのか」といった問いがたえず回帰してくる自由連想の袋小路の中で、分析主体はこの「正解の不在」を痛切に思い知るだろう。 精神分析の経験とは、いわば、この不在を根源的な条件とした上で、それでもなおそうした問いへの答えを探してゆくプロセスである。 いや、探すというより、分析主体はその答えを自らの手で創り出さねばならないのであり、しかもそのようにして創造された答えは、もちろん、やはり普遍的な正解ではあり得ない。 それは、むしろ積極的な意味でその主体に固有の、つまりまったく独特な答えであって、まさにそれこそが、彼(彼女)の新たな性関係の「スタイル」を、もう少し通俗的な言い方をすれば「愛しかた」を、到来させるだろう

性関係があれば、ひきこもり当事者を苦しめる「再帰性のループ」は回避できたはず。
性関係がないがゆえに、いわば「去勢のフレーム問題」が生じる。 ここで立木氏は、それ自身のフレームを形成する創造過程として、精神分析の経験を語っている。 それを、「労働行為としての当事者言説」として語り得るだろうか。