べき論と自己分析 【参照:「自己分析という危険な賭け」】

自分のしんどさに固執することは、そこから公的な問題を立ち上げる分析労働の萌芽であり得る。 個別事例は、むしろ無私的に容赦なく素材とされる*1
逆に、自分のことを滅却しているように見えて、「自分は公的なことに取り組んでいるんだ」というナルシシズムでしかないことがある。 「べき論」に固執し、「それを論じている自分の事情」についてはなかったことにする人たち。 誰にも反論できない大枠の「正義」を標榜し、ディテールを理解する能力を持たない。 ▼このような者にとっての《正義》は、まずもって「自他を威圧するためのアリバイ」として持ち出される。
べき論(統整的理念*2)が必要ないというのではない。
《動機づけ》に関する自己分析の有無が分水嶺になる。 ▼「自己分析」というと、たいていは「心理学化」「職業適性」なのだが、それでは「孤立したエゴ」の問題でしかない。 ここではそうした話ではない。 むしろ、自己分析の拒否が私秘性にあたる
べき論(正論)を持ち出す人間の一部は、自分の周囲の人間をメチャクチャに裁こうとする(統制的理念が問題になっているにもかかわらず、その主張自身に公正さがない――硬直的・差別的*3)。 そうやって、「正義の味方」としての自分のポジションだけは維持しようとする。 ▼「自分のことを置き去りにすることをプライドにしている」などと言う者は、欲望に関する自己分析を恐がる。 「私的アリバイのために公的な活動に取り組む」*4という、まま見られる事情。
公的な問題構制と、自分の被承認欲との関係の作り方。 「公的な正当性」の建立スタイル。 ▼「事後性」という大きな要因。 「べき論」のアリバイは、事前に確保されている。 賭けの要因がない。 ――いっぽう、公共精神の反復強迫的な発露(再帰性)としては、ひとまず分析労働に没頭するしかない。 その無私的な、しかし迎合したのではない没頭に、公共的な性格がある。 結果的に成功しているかどうかは、「あとになって」判断するしかない。

  • 動機づけの枠組みとしての《正当性》は、アリバイとしてではなく、反復強迫的で再帰的な分析労働の枠組みとして確保すべき。
    • アリバイではなく、問いの反復が共有される必要がある。




*1:難しいのは、「個別事例が、自分の主張を証明するためのアリバイとして持ち出されるだけ」というケースがまま見られること。 こうした場合では、個別事例は主張者のナルシシズムのために利用される。――このあたりは本当に踵を接する。 ▼cf.「似て非なるものは最悪」(id:shfbooさん)

*2:カント、柄谷行人など。 実現不可能だが、それを理念として掲げなければいつまでたっても現状を変えてゆけないような理念。

*3:私がこれまでに出会った最も差別主義的な人間(の一人)は、その人自身が差別問題に取り組んでいた。

*4:もちろんそれは、一定の仕方において誰かの役に立つだろう。 ▼しかし、反省的(再帰的)な自己理解を欠いている。 別の誰かを、ひどく痛めつけているかもしれない。