倫理的衝動としての欲動

為すところを知らざればなり』p.456-8より。 繰り返し立ち返っている文章。

 しかしながら、ヒステリー的欲望、強迫神経症的要求、倒錯的享楽というこれら三つの倫理と並んで、第四の倫理的態度、欲動 drive の態度が存在する。 欲動に関するラカンのテーゼはある点にまで先鋭化している。 つまり、主体が「自分の欲動に関して道を譲っては」ならないということは適切ではない、欲動それ自身の地位が内在的に倫理的だ、というのである。 我々は生気論的生物学主義の正反対のところにいるのだ。 欲動を最も適切に例証化するイメージは、「盲目的で動物的な繁茂」ではなく、失われた大義の記憶に繰り返しあたりをつけるよう我々を強いる倫理的衝動なのである。 肝心なことは過去のトラウマをできるかぎり正確に想起することではない。 そんな「証拠調べ」はア・プリオリに間違っている。 そんなものはそのトラウマを中立的で客観的な事実に変換するからである。 これに対し、恐ろしすぎて想起できず、我々の象徴的宇宙に統合できないほどのものがまさにトラウマの本質なのである。 何らかの「空虚な」象徴的身振りによって、その当の「不可能性」にこそ、その統合‐されざる戦慄にこそ繰り返しトラウマそのもののあたりをつけること、我々はそうするだけで精一杯なのである。
 アウシュヴィッツを生き延び、共産主義の圧迫にもかかわらず西欧へ向けてこの地を去ることを拒んだポーランドユダヤ人の証言こそ、こうした身振りの感銘深いケースであった。 どうしてそうしているのか、ジャーナリストに理由を聞かれて、そのユダヤ人は答えた。 収容所跡を訪れる度毎に収容所のどこかの建物のあるコンクリートブロックや残骸に気づくのです――自分はこの無言のコンクリートブロックに似ていて、唯一重要なことは、自分が戻ってくること、自分がそこに居ることなのです、と。 これと水準は違っているが、クロード・ランズマンは大虐殺の記録映画『ショアー』で同じことを行なっていた。 彼は大虐殺の「生々しさ」を再構築するいかなる企てもことごとく断念することにはじめから決めていた。 生き残りの人びと、アウシュヴィッツの敷地に今日住んでいる農民に数多くのインタビューをすることによって、収容所の見捨てられた残骸をスナップ撮影することによって、彼は大破局の不可能な場所を取り囲んだのであった。 そしてこれこそラカンの欲動の定義の仕方なのである。 つまり失われし大文字の物〔das Ding〕の遺跡を何度も何度も取り囲もうとする強迫衝動、その遺跡の不可能性そのものにあたりをつけようとする強迫衝動こそ欲動だというのであるから――零度の、最も初歩的な欲動の具現を例証しているものとして、墓標こそまさに死者の遺跡にあたりをつけるものである。
 そうなると、これこそ左翼が「道を譲って」はならない点だということになる。 「大文字の歴史の終末」という支配的イデオロギーならば消し去ることを好むであろう一切の歴史的トラウマ、夢、破局の痕跡をすべてとどめ置くことこそ、左翼がなさねばならぬことなのだ――左翼はみずからが自らの生きた記念碑にならなければならないのであり、その結果として左翼がここにいる限り、これらのトラウマはあたりを付けられたままでいることになる。 そうした態度は、過去への郷愁的な心酔に左翼を閉じ込めるどころか、現在に対して距離を置くようになる、大文字の新しきものの兆候を見分けることを可能にしてくれるような距離を置くようになる、唯一の可能性なのである。

ここでは「左翼」が語られているが、一方でジジェクが、ヘーゲル国家論を参照しつつ、象徴天皇制を積極的に肯定する(としか取れない)発言をしていることに注意。 「純粋な自然の残余」「例外的な点」など。