「再帰性」という永久機関への同一化

    • 【2007-06-11追記】再帰性や事後性に関するこの当時の私の記述は、今から見るとぜんぜん駄目。 あらためて勉強を続けます。

「終わりなき再帰性」は、それだけでは合理的検証の無限ループ(「臆病な発想」)に陥る。
これは、クラッチを失ったエンジンのような状態であり、ひきこもりの不毛な暴走状態そのもの。
そこで、

  • 「終わりなき再帰性」という永久機関をエンジンとし、
  • 事後性(フロイト)の見地から、「事後的な分析」の時間軸を、駆動構造としてそこに仕込む。


    • 「終わりなき再帰性」という《症状=非合理=未規定性》の枠組みに、「事後的な分析」という労働行為をもって同一化する。
    • 終わりなき再帰性という《症状=過剰性》を、「遅れてやってくる労働」の現場として、《自分自身》として、再帰的に生きてみる。 伝統を選ぶように、症状を選ぶ
    • 事後的な分析において生きられた「終わりなき再帰性」=「終わりなき分析」(フロイト)の枠組みそのものを、倫理的=社会的に生きるスタイルとする。

このような再帰的選択において、「不可能であることが分かっていて、あえてやっている」というようなアイロニカルな自意識が、わざわざ必要だろうか――というか、そのような自意識が残り得るだろうか。
公共的な労働行為としての「事後的な分析」には、過剰な情熱(享楽)がある。

【メモ追加】(こちらにあったもの)

  • 「どんな自己決定にも伝統が反映する」をなぞらえて言うならば、「どんな意識的決定にも、無意識の(症状的)影響がある」。
    • cf.「ユビキタス社会は無意識を二重化する*1」(斎藤環)。 私たちは、すでになにがしかの被‐決定的な、主意主義的な振る舞いを見せている。
  • 「選択する主体の一貫的統合機能」は、「終わりなき再帰性」の構造として、すなわち非合理な情念の構造として、実現されている。 その構造への同一化として、再帰性は「終わる」。 再帰性への同一化において、再帰性が終わる。
  • 無意識の影響を伴った症状そのものに同一化すれば、それは脱力させる自意識とは別の営みになる。




*1:ICC オープニング・シンポジウム 「ネットワーク社会の文化と創造」より