-
- 【2007-06-11追記】: 再帰性や事後性に関するこの当時の私の記述は、今から見るとぜんぜん駄目。 あらためて勉強を続けます。
「終わりなき再帰性」は、それだけでは合理的検証の無限ループ(「臆病な発想」)に陥る。
これは、クラッチを失ったエンジンのような状態であり、ひきこもりの不毛な暴走状態そのもの。
そこで、
-
- 「終わりなき再帰性」という《症状=非合理=未規定性》の枠組みに、「事後的な分析」という労働行為をもって同一化する。
このような再帰的選択において、「不可能であることが分かっていて、あえてやっている」というようなアイロニカルな自意識が、わざわざ必要だろうか――というか、そのような自意識が残り得るだろうか。
公共的な労働行為としての「事後的な分析」には、過剰な情熱(享楽)がある。
【メモ追加】(こちらにあったもの)
- 「どんな自己決定にも伝統が反映する」をなぞらえて言うならば、「どんな意識的決定にも、無意識の(症状的)影響がある」。
- 「選択する主体の一貫的統合機能」は、「終わりなき再帰性」の構造として、すなわち非合理な情念の構造として、実現されている。 その構造への同一化として、再帰性は「終わる」。 再帰性への同一化において、再帰性が終わる。
- 無意識の影響を伴った症状そのものに同一化すれば、それは脱力させる自意識とは別の営みになる。
*1:ICC オープニング・シンポジウム 「ネットワーク社会の文化と創造」より