「毒にも薬にもなる言葉」

言葉の努力に関連し、ある方からものすごく励みになる言葉をいただく(9月5日夜)。
私はこれまで、それを「当事者発言」という枠組みで考えていたが、
もう少し広い枠組みかもしれない。


私なりに翻訳してみる。

  《現実的な言葉》(Real*1 Words)というモチーフ
  排除*2されるべき言葉

「言葉が《現実的》になってしまうことを恐れるな」




現実(reality*3)に適応しようとすればするほど、つまり「私は正しい」と俗世的に正当化を試みるほど、
言葉がウソになる、ゴミクズになる。
どこまでも「現世的な」言い訳を求め、居丈高に居直る連中。




あの4日の書き込みは、卒業すべき感傷だ*4
私は、性愛的ナルシシズム(imaginaire)と、《現実的な》言葉の間にいる。




「自分のこと」は、猥褻とはまったく違う意味で、《現実的》ではないだろうか。
《現実的》に触れられないところに、くだらないナルシシズムが始まる。




私が本当におびえているのは、自分の言葉と存在が《現実的に》なってしまうこと。
それは社会から抹殺される。
他者にとって不気味で、得体が知れず、「不愉快の極み」。




宮台真司氏の言う「すごいもの」は、《現実的な》の問題。
彼の言葉が、私にとって「知的」というよりは「外傷的」だったこと。





*1:ここでいう「Real」は、ラカンの3界(Real, Symbolic, Imaginary)を参照している。

*2:ラカン派の精神分析で重視されるターム。 ▼各国語では、Verwerfung(独), forclusion(仏), foreclosure(英)

*3:スラヴォイ・ジジェクの議論において、適応主義的な社会的現実を意味する「Reality」は、外傷的な「Real」に対立させられる。 【参照:『イデオロギーの崇高な対象』】

*4:感傷は、暴力かもしれない。 これはあらためて、必ず考える必要がある。