社会学とは――「公共社会学?」(太郎丸博氏)

 「今日の社会学の問題は公衆への発信がないことではなくて、発信すべき理論的知識を生産していないことにある」(盛山和夫

 盛山によれば、「異なって対立している諸文化と意味秩序に対して、それらが共有しうる新たな意味秩序を提示すること」が、公共社会学が満たすべき条件の一つである。 それはつまり、文化や立場や考え方の異なる様々な人々が納得するような、事実の記述や説明、政策提言を行うということだろうと、私は解釈する。

 私に言わせれば、すべからく社会学は盛山の言う公共社会学であるべきである。

だとしたら、それは多くの人が身につけるべき倫理的姿勢なのだと思う。
「当事者であること」は、ナルシシズム夜郎自大の言い訳ではなくて、
「公共的な−精神分析的態度(public psychoanalytic attitude)」
を引き受けることではないか。
ブレインストーミング的な分析的対話を続けること。

 「知っていると想定される」大文字の主人の立場を引き受けるどころでなく、本講義の張本人たる私は自分の聴衆を分析者としてこれに話しかける分析主体*1として振る舞ったということである。 (ジジェク為すところを知らざればなり』p.5)
 ...the lecture acted as the analysand addressing the analyst, composed of his public.*2

「公共的な−精神分析的態度(public psychoanalytic attitude)」――こんな言い方はないと思うが、勝手に作ってみた(何て言えばいいのやら)。 ▼以前書いた、「過剰性と、その事後的な検証」のあたりの話。 ずっと核心的だと思いつつ、なかなかまとまらない方法論。



*1:「analysand」。 邦訳原文では「被分析者」となっているが、ラカン派のニュアンスを込めた。

*2:原書『For They know Not What They Do: Enjoyment as a Political Factor (Phronesis Series)』p.3