レポート:「ジュディス・バトラー講演会 ―Undoing Gender―」(chikiさん)

ジェンダー」「セクシュアリティ」の話が、これほど参考になるとは・・・。

 背景にあるのは、「承認」は社会的現実の一部をなしているということ。

 自己同一性が仮に語りえないものだとしても、別のシステム、別の動作で表現されることはないと考える理由はない。この要求がなされたとき、恐怖、羞恥は明確な申し立てに変容する。

「主張すべき権限は何であるか」ということ。 当事者がみずからを無条件的なメタとして行なう異議申し立て*1は、ベタなチンピラみたいな存在になってしまうのではないか。

 このような混乱が生ずるのは、ラカン理論のファルス中心主義を超越的立場ととらえるか、超越論的立場として理解するかが定まっていないためではないか。もちろんラカン理論の価値は、厳密に後者において極まっている。それゆえラカンモダニストとみなす言説は、ラカン理論が「実体化された欠如」をあたかも神と見なすかのような神学的体系と(意図的に?)曲解することによって成立しているのだ。

ベタなメタ(超越的)ではなく、遡及的に自分の身を切りながら分析する「超越論的」視点が、「当事者」にはどうしても必要なのではないか。 ▼「超越的」と「超越論的」が、《当事者》論の一つの鍵。



*1:去勢なき、無際限な利己主義。 リベラルな断念のない「当事者主権」。