「当事者」の主張責任

「見解」中の2名の手記は、「取材手続きへの抗議」ではなく、「貴戸氏の解釈への反論」なのだから、お互いに対等な《言葉》のレベルにある。ところがこの2名が「当事者」であることによって、その主張は《存在》、つまり≪反論してはならない絶対的声明≫とされ、シューレの「見解」(《言葉》)を補強している。ここで≪当事者の声≫という存在は、「解釈レベルの反論」を、「手続きレベルの抗議」にすり替えるマジック・ポジションとして援用されている*1。「見解」に手記を寄せた2名が、こうした事情を知った上で寄稿に同意したのであれば、この2名は「当事者」というみずからのポジション(存在)を、シューレに政治的に利用させることを政治的に決断したことになる。ここには当然、主張責任が発生する。東京シューレは、この2人をこうした責任の場に連れ出した。
同様にして貴戸理恵氏は、「ニーズの主体」として、みずからの声を「主張の主体」としての自分自身(論文執筆者)に利用させている。これは、「当事者として発言する」という社会行為を試みる者すべてに問われる責任構造である。



*1:「取材対象となった当事者の発言を無条件に尊重すべきである」という東京シューレの態度は、実は常野雄次郎氏の存在によって、すでに破綻している。