《存在》 と 《言葉》

再度確認したいのは、これは「ニーズの主体」と「主張の主体」を混同する問題ということ*1。シューレの振る舞いは、「《主張の主体》としての当事者の声を消すために、《ニーズの主体》としての当事者を持ち出す」という構図を持つ。あるいはこう言い換えてもいい。「《言葉》を打ち消すために、《存在》としての当事者を持ち出した」。ここでは「当事者の言葉」は、対等な対話相手としての《言葉》ではなく、言葉を黙らせる《存在》として機能してしまっている。当事者発言はあくまで《存在》であって、ということは、対等な関係を求めて当事者が反論を試みれば*2、その解釈は「正しい解釈」の保持者としてのシューレに批判されることになる。(「理論」と「当事者の言葉」は別の水準にあって、後者は前者に奉仕する形でしか存在を許されない。) 「当事者の体験」は、解釈権をもつ東京シューレに牛耳られてしまう*3
今回のケースでは、貴戸氏が「東大大学院生」ということで、貴戸氏の言葉には《存在》としての価値が与えられなかった。しかし貴戸氏自身は、みずからに巣食う「不登校の記憶」を、あくまで《存在》のレベルで評価しているように思われる。



*1:これは、「客観的なポジション」から峻別することのできない解消不可能のジレンマであり(しかし峻別の努力は常に繰り返されるべきだ)、だから論争が続いてゆく・・・。重要かつやりきれないのは、論争に関わっている全員が、「不登校当事者にとっての利益」を目指していることだ。

*2:貴戸氏の行為はそれにあたる

*3:不登校擁護の運動を進めるためには、そのような暴力性にも果たすべき役割があったことがじゅうぶん想像できる。