運動体のイデオロギーと、「当事者の声」

「当事者の語り」のみを取材対象とする貴戸氏においても、「見解」に「当事者の手記」を掲載する東京シューレにおいても、≪当事者の声≫は、不可侵の尊重対象とみなされている。▼『不登校は終わらない』は、貴戸氏自身の不登校経験の記憶を出発点としており、そのフィールドワークは、「他の当事者たちの声」を収集している。貴戸氏が「東京シューレ」や「奥地圭子」に取材しなかったのは、単なる忘却ではなく、「当事者」にターゲットを絞ったゆえの原理的選択といえる。シューレからの修正要求に対する修正基準と修正結果(重版時)を見る限り、貴戸氏は奥地圭子氏について、「不登校当事者の発言を修正する検閲権限はない」と考えている。▼『不登校は終わらない』が、作品創造の起動因においてのみならず、主張内容においても≪当事者たちのニーズ≫を抱えており、それが「暗い不登校」や「ひきこもり」の指摘につながっているとすれば*1東京シューレは、貴戸氏の解釈を検閲する振る舞い*2によって、みずからのイデオロギーからこぼれ落ちる≪当事者の声≫を消しにかかっていることになる。その際にシューレが持ち出す正当化の論理は、あくまで「当事者の利益」であり、そのために2名の手記(「当事者の声」)が援用された。いわば、「ある当事者の声を消すために、別の当事者の声を利用する」構図がある。



*1:報告者である私自身はそのように考えている。

*2:「反論」はぜひとも肯定されるべきなのだが、ここではシューレの行なった「260箇所以上の修正要求」を「検閲する振る舞い」と表現した。しつこいようだが、貴戸氏の解釈の成否そのものについては、まったく別の検証課題として残っている。