個人的に、「当事者」という言葉への違和感が強くなっている。というか、『「ひきこもり」だった僕から』などという著書のある私は、まさしくこの問題の当事者*1なのだが。
「当事者」という言葉は、ある社会的尊重のために必要だと思うが、それが菊の御紋のように無条件的権威として機能することに奇妙さを感じる。それは実は、「相手にされない」ことの裏返しではないか。
-
- 英訳して「person concerned」というときの社会的機能とは、差異があるのだろうか。▼「女性学」等の個別当事者学はあっても、「当事者であること」そのものを分析するいわば「メタ当事者学」はないのだろうか。それは、フィールドワーク論との関係にないのだろうか。
「当事者が批評する」と同時に、「当事者を批評する」必要があると思う。≪当事者主権≫というのは、「意思決定の権利」であると同時に、「批評的に批判される権利」でもあると思うのだが。 → そこで発揮されるべき「批評的な厳しさ」は、権威主義的な説教(パターナリズム)とは違ったものになると思うのだが、どうだろうか。*2
-
- 事情を知らない「当事者にあらざる者」の発言はたいてい頓珍漢だが、属性レベルでの当事者性は、発言レベルの正しさを保証しないはず。
- 「説教」とは、「拙劣な批評行為」ではないか。
-
- 「当事者であるがゆえ」の、情報生産における質的差異はあるか。「当事者」とはどのように機能すべき権威性なのか。私たちは「当事者」という言葉で実は何を意味しているか。