「学校に行かない/行けない」の周辺

不登校」の話を20年間スルーしてきた。 「登校拒否」で少し見ただけ。
不登校に関連する話というのは、独特の事情を持った≪傷≫の話ではないだろうか。*1


貴戸理恵氏の本を読もうとして、全身が熱くなり、息が乱れ、メガネが曇った。 思い出したくない何かに触れる、記憶がダバダバ出てきて収拾がつかなくなる話題。 何か、おぞましい事情があるのだ、あの「学校に行けない」周辺には。
「その事情はどういうものか?」という問いは、(まさに貴戸氏が書いているとおり、)うかつにするのは暴力。 それをそれ自体として問うても、回答しようとする作業自体が自傷(の形を取った他傷)行為にしかならない。 僕はこの問いを封印し、「生き延びるための対策案」の析出に議論を限定したかもしれない。 「あの時どうだったか?」の心理探索より、「放っておいたらどうなるか」の最悪想定と、それへの対処模索に終始するようになった。 「不登校の時どうだったか」は、それほど耐えられない問いであり探索だった*2。 具体的な対策案(教育制度改革への素案等)の模索とセットでなければ、とてもそれ自体として話題にできない(今の私は)。


それは傷なのだから、
過剰にロマンチックな肯定物語をオブラートにして、傷そのものを包み込んで納得してしまおう、という(自分や周囲への)欺瞞的姿勢があっても不思議ではない。 その痛々しい、作り笑い・・・。 しかしその作り笑いは、その否認的姿勢において、周囲への暴力になり得る。 そしておそらくそれゆえに持つ、政治的機能がある。


私は1968年生まれだが、登校拒否状態に苦しんだ1982〜3年当時に知り、苦しんだエピソードがある。↓

 俺と同い年の登校拒否の中学生が、家庭内暴力もあって強制的に精神病院に入院させられ、そこでも抵抗して暴れたため、手足を拘束具でベッドに固定され、強いクスリを注射されて監禁された。

情報源が何だったか覚えていないし、ひょっとすると私の誤認かもしれない。 しかし私は当時この話に真剣に怯えた: 「俺も捕まって収容されクスリ打たれるんじゃないか」。 「登校拒否は悪ではない」という対抗言説が勢力を得る前夜の、完全に孤立した中学生。
1980年代前半のこの状況に対して、東京シューレ的な言説は登場していたと思う。 精神科医や文部省と戦えない無力な中学生だった私は、素朴に快哉を叫んだ*3

1982年(中学2年)秋に心身症発症1983年度不登校84年3月、現役で中学卒業、高校入学84年4月に理不尽な体罰不登校*4、退学84年度の1年間ひきこもり85年4月から1年遅れで自宅から離れた高校で寮生活87年3月に中退87年4月〜7月フリースクール在籍87年秋、大検取得88年4月大学入学不登校、休学7年かかって無理して大学卒業バイトに挫折するうち引きこもり

という経歴の私は、80年代半ば〜後半、「東京シューレ」という名前は知っていたが、あくまで「どこかでやっているらしい、登校拒否擁護の対抗言説と実践」というぐらいの認識で、ありがたい気持ちは持ちつつも、「それだけじゃなぁ・・・」と思っていた。 政治的機運としては登校拒否を擁護してもらわなければ絶対困るが、「学校に行かないことの容認」は、それ自体としては、自分が生き延びていく保証も指針も生み出さない。 そこの部分は、自分で切り開かないとどうしようもない――その悩ましさの中で、どんどんドツボにはまっていった。 そもそも、学校に行けなかったことをずっと悔やんでいたし(「取り返しのつかない時間と青春が失われた」)、不登校を「自分で選んだ」という言説には、無理があった。 いや、「選んだ」と思おうとした、しかし失敗した。


信仰の世界に安住できる/しようとする人と、自分の内側に抱えた狂暴な傷のような疑惑が猛威をふるい、「約束の地」に安住することがどうしても出来ず、その王国を食い破る「言葉の酵母」にならざるを得ない人と。 (僕は明らかに後者だ。)
「傷に取り組む、傷そのもののような知性」なのか、「傷を優しく包み込む物語」なのか。 前者にとって後者は欺瞞と抑圧であり、後者にとって前者は傷そのものとなる。





*1:ここで「トラウマ」という言葉はひとまず避けた。 いわゆる「トラウマ語り」とは微妙に違うと思うし・・・・。

*2:たぶんそこには、「無力な自分の馬鹿さ加減」も透けて見えるからではないか。

*3:東京シューレの発足は1985年6月とのこと(同じ年の4月に自由の森学園が開校されている)。 しかし私が中学生だった1984年3月までにも、ぽつりぽつりと「登校拒否擁護」の言説はあったように思う(新聞記事を読みながら安堵した記憶がある)。 ただしこれはもちろんおぼろげな記憶。 言説状況がどうだったか、興味あります。

*4:この高校には1日しか通っていない。