「祝祭的」

「波状言論」に掲載されている鈴木謙介氏(id:charlie_k)の「カーニヴァル・モダニティ・ライフ」4回分を一気に通読し、再読したのだが、きわめて示唆的。 特に第2回(第13号掲載)、第3回(同15号)のニート論、「雇用問題と祝祭的勤労」がツボ(当然か)。


私は、「ひきこもり」や「ニート」をテーマに書き手や話し手になっているとき、一種のトランス状態に陥ることがある。 それだけ自分にとって核心的なテーマだ、と思っているし、逆に言えば、そういう状態に陥らない他のテーマでは、取り組んでいても忍従的苦行にしかならない。
いや、・・・・・「ひきこもり」というテーマ自体、私にとって本当に――本当に――キツイものであることは間違いない(胃潰瘍になっているぐらいだし)。 でも、トランス状態を経験できる議論テーマは、どうも他にはないらしいのだ。
鈴木氏の「祝祭」は後期近代の寄る辺なき状態(「意味不明な合理化」の飽和点)の話なので、論点がズレてしまうのだが、私にとっての「祝祭」というとそういう話になる。
関連がよくわからん。 が興味深い。
――いや、「祝祭」といえば、やっぱり「他者と共有」すべきもの?