ひきこもりのための安楽死(尊厳死)

少々過激な言い分になりますが…。 避けて通れないと思うので。


上でも書きましたが、「去勢」を相手に望むのであれば、そこには(その相手にとっての)「希望」がなければならない。 「希望」がないのならば、それは「拷問の強制」でしかないので、「去勢」は不可能ではないでしょうか。
ひきこもり支援は、何らかの形で本人に欲望を持ってもらい、ということは「希望」を持ってもらい、そこから去勢への回路が開かれ、もって「社会」への回路も開く、という道筋を持つものだと思います。
しかし…。
「努力すれば、誰でもなんとかなる」というのは、幻想だと思います。 「努力してもどうにもならない」人もいる(少なくとも、短期的な実現可能性の中では)。
だとすれば、「努力してもどうにもならない」人のための苦痛緩和的な選択肢も、用意しておくべきではないでしょうか。


現実的に言って社会再復帰の可能性がなく、しかも当人の主観的苦痛があまりに激しい場合には、(文字通りの意味での)安楽死尊厳死)を、検討すべきではないでしょうか。


21日、少しだけ書きましたが、やはりあらためてこの問題を真剣に検討すべきではないか、と思うようになっています。

  • 「この人はもう、社会的にはどうにもならないんだ」ということを周囲が悟った*1として、それを本人に告知すべきかどうか。 「君はもう、社会的には死んでいるんだ。 あきらめなさい」
    • 告知後に(短期的にでも)扶養を続けるなら、「自意識レベルでの拷問」状態になるし、扶養をやめるなら、「私たちは君を放置するから、激痛とともに死ね」と言っているだけ(自殺の誘発因を作っている)。
    • → 告知は残酷すぎる。


  • 何も伝えず、「まだどうにかなるんだ」という本人の妄想的な希望にうなずいてあげて、可能なかぎり食事だけは与えるのか。
    • 本人のプライドを維持したまま死なせてあげる = 「自意識の尊厳死」(苦痛のないまま、すでに社会的にはクズと化した自意識を葬ってあげる)
    • 本人が死ぬまで扶養できるならそれもいいが、できないなら、「金の切れ目が(本人の)妄想の切れ目」。 早晩修羅場がやってくる。
    • → (一生働かなくていい)資産家以外は、告知せずとも激痛が訪れる。


  • 本人自身が充分なリアリティをもって「完全にあきらめている」場合、将来的に予想される断末魔の恐怖が彼らを本当に苦しめている(僕も他人事ではない)。
    • この状態で「命を大切にしなさい」とか「やればなんとかなる」というのは、そう言っている人のナルシシズムの問題でしかないのではないか(「人の命を大切にするワタシ」、「人を励ましているワタシ」)。 本人の望まない延命の強要は、人の人生に無益な苦痛を押し付けることであり、それ自体が犯罪的ではないか。
    • 状況改善の具体案を出せないのであれば、生の強要はかえって無責任ではないか。



ひきこもりというのは、社会参加や職業生活に関する完全な無能力であり、かつ激痛をともなう。 もちろん、再復帰に向けての訓練や環境整備は可能なかぎり続けるとして、しかしそれが「間に合わない」人については、やはり「苦痛緩和」の人道的見地から、安楽死尊厳死)の選択肢を、検討すべきではないか。


末期癌の患者さんに対してさえ適応できそうもないと言われている尊厳死。 「ひきこもり」の実情を知らない人からすれば、僕が冗談を言っているようにしか聞こえないでしょう。 でも、申し訳ないが僕は本気なのです。
「ひきこもっている人のすべてに尊厳死が必要だ」などとは、もちろん言いません(癌だって最後の最後まで治療努力をするように)。 でも、「どうやら本当に駄目らしい」人については、「とにかく社会復帰せよ」というのとは別のルートで、「苦痛緩和」の道筋を用意すべきではないでしょうか。
「本当にダメな人」を放置するのは、苦痛の実在そのものを社会的に否認する(なかったことにする)ことであり、暗黙に「野蛮な形で自殺するか、野垂れ死ね」ということ。 それこそ非人道的に思えます。 → ひきこもり当事者の立場から、本気で政治家を説得(ロビー活動)すべきかも。


安楽死尊厳死)については、やはり社会学を研究している方々が扱っておられるのでしょうか。
ひきこもっていて、自殺を真剣に検討中のみなさん。 自殺のマニュアル本を調べるのも現実的だと思いますが、「安楽死尊厳死)」の実現に向けて、社会的なアクションを起こしてみませんか*2。 あるいはいますぐに「ロビー活動」が無理としても、このテーマについて、一度ちゃんと考えてみませんか。
繰り返しますが、適当な冗談で言っているつもりはありません。 苦痛があまりに激しく、しかも社会保障などを期待できないのであれば、無惨な仕方で自殺を試みるよりは、もっと人道的な対策を用意できないだろうか、ということです。


――ああ、言ってしまった。 本当はずっと言いたかったはずなんですけど、「自殺は許されない」が絶対的な掟になっている日本では、あまりに口にしにくくて*3
やはり「自殺は許されない」というのが、社会を成り立たせるために必要な虚偽意識、ということなんでしょうか。 自殺が社会的に公認され、そのための楽な方法まで用意されたら、亡くなる人が後を絶たないのは目に見えているし…*4


生きるための支援が期待できず、かつ死ぬための支援も期待できない、というのは、ものすごく残酷な状態だと思うのですが、いかがでしょうか…。





*1:端的に経済的な理由から「扶養できない」など

*2:この発言のメカニズムに、なるだけたくさんの人が気付いてくれますように。

*3: は! 「散るを厭う 世にも人にも先駆けて」(三島由紀夫・辞世の句)…。 ここでまたしても三島的問題意識と交差してしまった。 彼は、「ただ死ぬ」のではなく、「行動」として死ぬことを望んだのでした…。

*4:現在発表されている日本の「自殺者数」は3万人程度ですが、これは「決行から24時間以内に死亡した」ケースのみ。 時間が経過してから亡くなった場合にはカウントされないし、当然「未遂者」は、既遂者の何倍にものぼります。