去勢

  • id:sivad 氏: 「公と私ってのは対立概念なのでしょうか」。

うーんと、僕は思想史的な基礎知識があまりに欠落しているので、「公−私」という概念の成立史も知らないのです…。 古代ギリシャとかに遡るのかなぁ…。


ちょっとご提案の趣旨から外れるかも知れませんが、僕が「公私」で考えたのは、≪去勢≫という、ひきこもりを論じるときに必ず持ち出されてくる概念です。 「私」は、「公」との関係において去勢されるのではないか、というような。

 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。 さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。 つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。 これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。
成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。 成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。 みずから望んで去勢されることは、できないのです。*1



ひきこもりは「幼児的万能感」にひたっており、それゆえ「去勢されていない」(去勢否認)とされる。
僕自身は、この去勢否認自体が、「絶望」を生きるしかできない状態への防衛反応だと思っているのですが、さらにもうひとつ――ひきこもり当事者(経験者)は、実は「本当に納得できる形で去勢される」ことを、誰よりも切望しているのではないか。
しかし、「真に合理的な去勢」は、それを内面的探索によって探り当てようとしても、おそらくどうしようもない。 「科学的・論理的根拠に基づく内発的去勢」というのは、おそらくあり得ないのではないか。 去勢には、不合理な飛躍、「なぜかわからないがそうなってしまった」という要因が、必要なのではないか。


何か「どうしてもやりたいこと」を持っている人は、早い時期に去勢される。 才能がある人はその「やりたいこと」を通じて社会参加することになるから、たとえば音楽や文芸などの創作活動をしている人であれば、「作品公開」にともなう責任を通じて去勢される。 才能がない人も、繰り返し演奏や投稿をするうちに「自分はどうもダメらしい」ということに気付き(去勢され)、早々に(家業を継ぐなどの形で)社会参加することになる。――いずれにしても、「好きなこと」を通じて他者への回路が維持されており、そこを通じて去勢される。
「やりたいこと」がない人には、この最低限の「他者への回路」すらない → 去勢されないがゆえに、「生きていこう」という欲望さえ湧かない*2 → 去勢されるより前に干からびて死んでしまう。




天皇」や「憲法」は、「日本人にとっての去勢」の問題だと思うので、やはりどうしても外せない話題だと思うのですが、これに関して一つ。
ひきこもりは「去勢されていないからいけない」と言われるわけですが、よく政治的な言説の中で、「去勢された日本」などというフレーズがありますよね。 あれ、「去勢されているからいけない」という意味のはずです。

  • 幼児的万能感 → 「去勢されなければならない」
  • 萎えた生き方しかできない → 「去勢されてはならない」

この辺で混乱しています。


そもそも、ひきこもり当事者は、完全に閉じこもってしまった密室の中で、仙人のように、あるいはこう言ってよければ、宦官のように暮らしている。 「インポテンツ」を生きているわけで、まさに社会的には「去勢」されまくっているわけです。 「負け組として何もできない」わけですから(反抗運動さえ起きない)。
→ これ、どうも「最近の子供たち」を理解するヒントにもなるような。 「小皇帝」のように振る舞い、「来訪者さえ気にしない」のに、社会的な単独者としては完全に無力な(去勢された)生を生きている。――こじつけですか?





*1:『社会的ひきこもり』ISBN:4569603785 p.206-7。 改行や強調は引用者。

*2:「欲望」は、「去勢」ゆえに生じる、と理解しているのですが、違ったっけ…。