「降りるしかできない不自由」

 「脱社会的存在」という言葉について考えているうちにいろいろ構想が広がって、東浩紀さんのメールマガジン波状言論』に掲載された鼎談を読んだりしています。「脱社会的存在」という言葉をキーワードに社会学に入門する、というのもアリでしょうか。


 少し前に「降りる自由」という言葉がネット上で取り沙汰されたようです。僕は、このテーマが持ち得る社会思想的な射程はよくわからないのですが、「降りる自由」と聞いて真っ先に考えたのが

「降りるしかできない」人はどうすればいいんだろう

ということでした。「降りる自由」ならぬ「降りるしかできない不自由」です。
 働こうと思っても仕事に就けない、なんとか就職しても続かない(辞めざるをえない)、辞めさせられる、云々――なんとか参加しようとするのに、できない。


 前にも書いたけど、ヒキコモリは医学的には「疾患」ではないけれど(単なる状態像だ)、本人の主観的には「障害」と認識される。そうするとヒキコモリ当事者にとっての「バリアフリーは、どんなものか。