考え中

 東浩紀氏は、インタビュー「社会が動物化している」で、次のように述べている。*1

 引きこもりの人と話をして感じたのは、彼らは動物化した社会になじめないのだということ。僕の研究テーマの「オタク」の場合、ある種の記号を身にまとうことで、動物化した消費社会に上手に入っていける。しかし「引きこもり」の人はできない。「生きる意味」を考えてしまう。だから、「引きこもり」の人たちは、実は動物化した今の社会で最も人間的な存在だとも言える。私たちの社会はもう、かつて文学が描いてきたような人間的な生を、「引きこもり」という形でしか許容できない。
 「引きこもり」の数はどんどん増えているといいます。社会全体が動物化するほど、そこになじめない「引きこもり」は増えるでしょう。そして、動物化した若者が元気にストリートをかっ歩し、動物化できない若者が引きこもるのです。動物的になれる、ということはある種の強さです。

 オタクの人は、「ある種の記号を身にまとうことで、動物化した消費社会に上手に入っていける」。彼らにあっては、「フィクション」は、自分の人生を意味付けるためではなくて、即時的消費のためにある。(引きこもっている人のフィクション消費も、そういう「即時的消費」として成立しているのだと思う。)
 いっぽう引きこもりの人は、基本的に生きていること自体が拷問で、それに耐えるために「生きる意味」を要求するから、どんどんつらくなる。人生に意味なんかない → 意味のないところに欲望は感じない → 生きたいという欲望自体が枯れてゆく。
 

 生活感情自体を即時的消費感覚で流せる人は幸せだ。たぶん、苦しくても流せる。苦しい時間にも、「意味」なんか求めない。
 ひきこもりの人は、一瞬一瞬の苦しい瞬間ごとに、「意味」への直結回路を求めているのではないか。「今」「今」「今」、その断片的な「今」の各々が、バラバラに、各瞬間ごとに「意味」への直結回路を持っていないと我慢できない。なぜなら、瞬間をまとめ上げて一本の「時間」とするような「大きな意味」はないからだ。意味のないむなしい瞬間を支えるには、<現在>は苦しすぎる。
 

 僕は「フィクション親和性」を、「生活になじむための作法」のように考えたのだが、現代においては実際に生活になじんでいる人々は「生活のために」はむしろフィクションを一切必要としない(動物的・断片的充足)。そこではフィクションは、即時的充足のための消費財だった。一方ひきこもりの人は、(大袈裟にも)自分の人生を「意味」のもとにフィクション化しなければ生きていけないと感じており、意味のない消費にはむなしさを感じ、意味のない苦痛にはいちいち拷問のような責め苦を感じる(シジフォスの神話のように)。
 

 やっぱり僕らは、「動物」にならなければならないのだろうか。だったら、なぜ物なんか考えなければならない? 考えたって仕方ないじゃないか。何も変わらないんだったら。

*1:こういう引用って、いいの?