交渉論と去勢否認の関係で、ラカンの「三人の囚人の話」を取り上げ、少しだけ触れるつもりだったのですが、考えているうちにどんどん深みにはまりました。今後も参照する機会が多いと思うので、以下に資料として引用しておきます。
「三人の囚人の話」
ジャック・ラカン『エクリ 1』 p.263-4より。強調は引用者。
論理的問題
刑務所の所長が三人の囚人をとくに選んで出頭させ、次のような意見を伝えた。
「きみたちのうち一人を釈放することになった。その理由はいまここで言うわけにはいかない。そこで、もしきみたちが賛成するなら、この一人を決めるために或る試験をしたいと思っている。
いまきみたちは三人いるが、ここに五枚の円板がある。そのうち三枚が白、二枚が黒というふうに、色だけによって区別されている。わたしはこのうちどれを選ぶか理由を言わないできみたちの背中に一枚ずつ円板を貼る。直接これを見ることはできない。ここには姿を映すようなものは何もないから間接的にも見える可能性はまったくない。
きみたちは、仲間とそれぞれのつけている円板はとくと見ることができる。もちろん、きみたちの見たものをお互いに言うことは許されない。きみたちの関心事だけは口どめされるわけだ。われわれの用意した釈放の処置の恩恵を受けるのは、最初に自分の色について結論をだしたものにかぎるからだ。
もうひとつ、きみたちの結論には論理的な理由づけが必要であって、単に蓋然性*1だけではいけない。このために、きみたちの一人が結論を言う準備ができたら、それを審議するための呼び出しを受けるためにこの戸口から出てもらいたい。」
この提案は受け入れられて、三人の囚人にはそれぞれ白い円板が貼られた。黒い円板はこのとき使われなかったけれども、それはもともと二枚だけ用意されていたことに留意していただきたい。
さて、囚人たちはこの問題をどのようにして解決できただろう。
完全な解答
三人の囚人は、いっとき考えた後で、いっしょに数歩前進し、並んで戸口を出た。彼らはそれぞれ次のような似かよった解答を用意していた。
「私は白です。それがわかる理由を申し上げます。私の仲間たちが白である以上、もし私が黒であれば彼らはめいめいこう推論できるはずです、『もし自分も黒であれば、もう一人の仲間は自分が白だということがすぐにわかるはずで、そうすればただちに出て行ってしまう。だから私は黒ではない』。そこで二人とも自分が白だと確信していっしょに出ていってしまうはずです。彼らがそうしないのは、私が彼らと同じ白だからです。そこで私は自分の結論を言うために戸口に進み出ました。」
このようにして、三人は同じような結論の理由づけに力を得て同時に出て行った。
これに続けてラカンは、「この解答は、問題が要求できる最も完全な解答として提出されるものであるが、はたして経験に一致させることができるだろうか。このことを決めるのはそれぞれの人の自発性にお任せしたい」と記している。
「せき立て」
斎藤環 『ひきこもり文化論』 p.90-92 より(強調は引用者)。 上とまったく同じ話ですが、理解に役立つと思うので、ゲームの説明部分から。
三人の囚人に五枚の円盤が与えられています。 三枚は白で二枚は黒。 囚人たちの背中に円盤が貼り付けられています。 他の囚人の背中を見ることはできるが、自分の背中をみることはできません。 もちろん会話も禁止されています。 ゲームの規則は、自分の背中の円盤の色を論理的に推論して言い当てることができた囚人だけが解放されるというものです。 規則の説明がなされた後に、三人の囚人の背中には、三つとも白い円盤が貼られます。
ゲームはあっけない結末を迎えます。 三人の囚人はいっせいに走り出し、三人とも正しい解答を述べて解放されるのです。 彼らはどのようにして、正しい答えを得たのでしょうか。 その思考過程は以下のようになります。
- 囚人Aは、他の二人の囚人B、Cの背中が白いのを見て考える。
- もし自分(A)の背中が黒なら、囚人Bの目には黒と白の円盤がみえているだろう。
- ならば囚人Bはこう考えるはずだ。
- 「もしも自分の背中も黒なら、囚人Cは駆け出しているはずだ」
- 「なぜならCの目には黒の円盤が二つ目に入っているのだから」
- 「しかしCは駆け出そうとはしない」
- 「ということは、私(B)の円盤は白なのだ。駆け出そう」と。
- しかし誰も駆け出すものはいない。
- ということは、私の最初の仮定は誤っていたのだ。
- すなわち、私(A)の背中の円盤は白なのだ。
この判断には、明らかに時間的な要因が含まれています。 囚人Aの論理構成は「自分以外の二人の囚人が駆け出さないところをみた」という瞬間と、そこから下される事後的な判断なしには成立しないためです。 また、この判断を下すには、誰よりも早く駆け出す必要があります。 誰かが駆け出す瞬間をみてしまうと、論理的な判断が不可能になってしまうからです。 これを精神分析家は「せき立て」と言います。
「せき立て」において、主体は先取り的に行動し、事後的にみずからの判断の正しさを知ることになります。 このとき主体は、三つの形式を経て変化します。 すなわち、
- 注視する瞬間の非人称的(=立場が存在しない)主体、
- 理解するための時間の相互的に不確定な(=立場が定まらない)主体、
- 結論を下すときの断言(=立場の定まった)の主体です。
「せき立て」は、このようにして「断言=行為の主体」という立場を確立するうえで、たいへん重要なきっかけになるのです。 それでは、なにゆえに断言と行為を等置できるのでしょうか。 これはラカンが指摘するとおり、「あらゆる判断は、本質的に一つの行為である」ためなのです。
ラカンは言います。 「確言の主語である〈わたし〉は、論理的時間の合い間によって、他人から、つまり相互性の関係から独立する」。 つまり、心理学的な意味での「わたし」なるものは、嫉妬などを含む他人との競争を主観化していく過程から、論理的形式として導き出されるということです。 ここであるいは、「ゲームに勝って開放されたい」という欲望があらかじめそれぞれの主体にあるではないか、という反論が出されるかもしれません。 しかし、この寓話の本質的な意義を考えるなら、ここはむしろ逆に考えるべきでしょう。 つまり、そこに他者があり、ゲームの規則があるからこそ「せき立て」が起こり、そこから「欲望」や「行為」が生ずるのではないか、という可能性です。
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- ゲーム参加者の一人が、重篤なひきこもり様の精神状態にあるとしたら、どうなるだろうか。具体的な論理構成をするより前に、自意識に忙殺されてしまって、何も考えることができないだろう。 ▼このゲームはかなり難解だが、元気な人であればもっと簡単に解くことのできる状況でも、ひきこもるような意識状態では無理。 端的に言って、ひきこもりは「戦術計算におけるバカ」として現れる*1。 あまりに脆弱で自意識が強すぎて戦術的にうまく振る舞えない人間が、数十万人規模で(症候的に)生じている。 それに対して、「お前らはバカだから」と自意識を強める方向で見下しても、何にもならない*2。 むしろ、自意識を無効化する契機が何なのかをこそ考える必要がある。 「せき立て」は、本来その無効化の契機をこそ問題にしているはず。
「焦燥感」と「せき立て」の違い
上記「三人の囚人の話」について、斎藤環 『ひきこもり文化論』(p.93)より。
このすぐれた寓話は、ひきこもりを考える際に、きわめて重要ないくつかの示唆をもたらしてくれます。 病理的なひきこもり事例において、欲望が存在するにもかかわらず行為が阻害されるのはなぜか。 それはまず「せき立て」の欠如にもとづくでしょう。 この言い方も、あるいは奇妙に聞こえるかもしれません。 ひきこもりの青年たちは、自分たちが世間から後れをとってしまったことに対して、強い不安と焦燥感を抱えているではないか。 それは「せき立て」とどう違うのか、という疑問もあり得るでしょう。 しかし私の考えでは、焦燥感とせき立てはまったく異なります。 多くの場合、焦燥感は有効な行動につながりにくい。 むしろ焦燥感ゆえに、無為に過ごしてしまうことも珍しいことではありません。 この点が行動を促す力を秘めた「せき立て」ともっとも異なっている点です。
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- 「断言=行為」の主体として屹立することは、自分を有限化することであり、まさに「去勢されること」といえる(去勢は、賭けとして遂行される)。 「断言=行為」を促すせき立てがなければ、去勢されることができない*1。 これだけを見ていると、単なる説教主義と見分けがつきにくい。
人間は去勢されることによって、はじめて他者と関わる必要性を理解するようになります。逆に、人間は去勢されなければ、社会システムに参加することすらできません。これは社会的、文化的要因によって左右されない、すべての人間社会に普遍的な掟ということになります。成熟は断念と喪失の積み重ね、すなわち去勢によって可能となりますが、ここで忘れてならないのは、去勢がまさに他者から強制されなければならないということです。言い換えるなら、みずから望んで去勢されることは不可能なのです。 (斎藤環 『ひきこもり文化論』 p.121)