再帰性 reflexivity(英) (ギデンズ、社会学)



日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.45-6 傍注より

 アンソニー・ギデンズ「諸個人がみずからの行為に関する情報を、その行為の根拠について検討・評価し直すための材料として活用すること」を「再帰性」と呼び、これの諸個人への浸透を近代社会の特徴とする。 たとえば、「再帰性」が浸透するにつれて、各地の伝統は「これまで伝承されてきたから」という理由だけではその継承が是認されなくなり、ある伝統が尊重される場合でも「なぜその伝統を守るのか」とその根拠がつねに問題視されるようになる。

「みずからの行為に関する情報を、その行為の根拠を検証し直す材料にすること」。 それがループ化すると、「自分はこれでいいんだろうか」という循環的な問い詰めが強迫化し、収拾がつかなくなる。
「自分の状態についての問題意識が高まれば高まるほど、勉強して病理に詳しくなればなるほど状態が悪くなってゆく。 フロイトのモデルの逆」(斎藤環、「ICCシンポ」)。 既存のひきこもり支援は、「オタクになれ」という斎藤環氏まで含めて、再帰性を減衰・忘却させる方向を目指している。

    • たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識するので、かえってできなくなる。――同じ事情が、社会生活や人間関係にも言える。






再帰性について、酒井泰斗(contractio)氏

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070107/1168107956

 「再帰」といえば、まずは数学用語(recursion / recurrence)だし、こういう用法↓のことを思い浮かべますよね:

    • ある対象 x の定義に x 自身を使用することを再帰といい、そのような定義を再帰的定義という。

 でも社会学では、この言葉は別の語(reflexive)の訳語として使われてるわけで、それがなんともキモチワルイです。 やめてほしい。 あと論者によって使われ方が違いすぎて、なにいってるかわかんないこともしばしばある。 といよりも(私の場合)そういうことのほうが多い。
 「再帰的近代」とか。なにそれ。わけわからん。


  • 英語 Reflection、Reflexivity
    • 文法で、自己を行為の対象とすること。 再帰代名詞、再帰動詞。
    • 社会学で、対象に対する言及がその対象自体に影響を与えることをいう。


 再帰性 reflexivity とは,社会学的には「○○についての言及が,○○自身に影響を与えること」と定義できます. 【中略】
 再帰性は社会科学の特性でもあります. 自然科学では観察結果が観察対象に影響を与えることはない(観察過程が与えることはあるでしょうが)からです. 【中略】
 ギデンズは「近代化が進むに従って社会は合理化され,社会の予測可能性・コントロール可能性が増していく」という考え方を退け,近代化とは再帰的近代化であり,予測可能性はむしろ掘り崩されると主張し,近代化=合理化論を否定しました.

勉強を進める上で、とても重要な示唆でした。







「終わりなき再帰性」と、アイロニズム

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.275-6 宮台真司氏の発言

 未規定なものを前にすると足がすくむというのは、私にいわせれば「幼稚園児の思考」です。 規定可能なものを徹底的に思考しつくした人間は、それゆえにこそ未規定なものに開かれ、そこから動機づけを獲得するのではないでしょうか。 規定可能なものしか前提にできないとする臆病な発想こそが、私たちを様ざまな錯誤や誤謬へと導くのです。
 近代社会においては、内在と超越を、かつてのようなかたちでは論じることが許されません。 なぜならば、近代社会では「終わりなき再帰性」によって、どのような外部も内部化されるからです。 言い換えれば、どこかに屈折したアイロニストがいるという話ではなく(笑)、《世界》自体をアイロニー――全体の部分への対応――として見いだすのです。
 「終わりなき再帰性」によって、超越も外部も全体も非日常も宗教も、排撃はされないものの、効力を奪われて無害化されます。 ウェーバーの「脱呪術化」や「世俗化」の概念は、終局、このことを述べています。 すると奇妙なことに、「終わりなき再帰性」のゲームに勤しむ私たちの営みが存在するということ自体、端的な未規定性としてあらわれてきます
 ウェーバーも晩年はニーチェの影響を受けて、そうした「ポストモダニスト的境地」に達していたというのが、山之内靖先生の結論です。 同じくニーチェの影響を受けた現代思想現代社会学が20世紀末までに到達したのも、ほぼ似たような場所です。 もちろん私が依拠する社会システム理論も、そうした場所を完全に共有しています。
 ポストモダンといいましたが、かつてのような意味での超越や伝統や本来性――近代の外――があり得ないという認識を出発点にしていることに注意してください。 近代社会では、超越も伝統も本来性も、再帰的な生成物です。 すべての外部は内部であり、全体は部分です。 だから私たちはアイロニズムというポジションを手放すわけにはいきません。
 アイロニズムが、脱臼によって消沈したシニシズムだと誤解されるのは、残念です。 むしろ脱臼による消沈ではなく、「不可能だ? そんなことはわかってやってんだよ、猪口才!」というポジティビティ(確信)こそが奨励されているのです。 先のようなシニシズムは、子どもっぽいロマンチシズムを断念しきれないがゆえの反転的ニヒリズムです。

「何を選んでも、負け戦の凡庸な消化試合」。
「おまえとこの世との闘いにおいて、この世の側に立て」(カフカ





「まともに生きようとするからうまく生きられないのか…」(宮台真司)

■「覚醒回避の没入・がもたらす無意味さへの覚醒・がもたらす覚醒回避の没入・…」という高速振動。 或いは「無意味を覆い隠すための祭り・がもたらす無意味さを覆い隠すための祭り・…」という高速振動。 かかる振動の背後にあるのが「終わりなき再帰性」だ。
再帰性とは何か。 『日常・共同性・アイロニー』で詳述した通り、自明性が支えていた選択前提が選択の対象になることだ。 端的に伝統に服する伝統主義と、伝統に服する選択をする再帰的伝統主義(保守主義という近代主義)を区別したマートンに由来する概念だ。
■これを踏まえてアレントは言う。 「真に伝統があるなら、どんな自己決定にも伝統が反映する。逆に、伝統を選べと強制する営みは非伝統的で、伝統の不在をこそ証す」と。 彼女がこう言うとき、しかし彼女は伝統の存在を信じており、ゆえに躊躇なく自己決定する。
■『日常・共同性・アイロニー』(04年)で「終わりなき再帰性」というとき、こうした自明性の地平が多少なりとも自己決定を浸すとは微塵も感じるられない実存状態(が拡がった社会状態)を指している。 鈴木のいう高速振動の背後には「終わりなき再帰性」がある。
■「終わりある再帰性」を反省と呼ぶ。 マートンの言う再帰的伝統主義は自家撞着を意味しない。 なぜならば、かつて選択対象でなかった選択前提をあえて選択する再帰的営みは、選択する主体の一貫的統合機能への信頼という「終わり」に裏打ちされた、反省だからだ。
■私たちの先進社会は今、再帰性に「終わり」が存在しない社会状態へと踏み込みつつある。 「終わりなき再帰性」は、あらゆる全体性が部分性へと(或いは内容が形式へと)対応づけられる「終わりなきアイロニー」ないし「オブセッシブなアイロニー」を帰結する。
■このことは「社会的な正しさ(社会的正義)の頓挫」を確実に招く。


    • 【2008-02-03追記】: ここにあった私の記述も、別の場所に移動しました。








『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』 p.83

宮台真司氏のインタビューにつけられた注より。
段落分けと強調は引用者。

 再帰性とは、選択前提(であるがゆえに通常は選択対象にならないもの)が選択対象に繰り込まれた状態。 近代社会では「手つかずの自然」は再帰的である。 文化を前提づける自然というより、あえて手をつけない文化的選択の結果を意味するからだ。
 学習の仕方を学習する場合も、選択前提だったものを選択対象とするので、再帰的である。
 似た概念として反省(性)があるが、こちらは、システムと環境との関係がシステム内部で再現された状態(全体が内部的に表象された状態)を意味する。 「世界のなかに私がいる」と見るのは誰か(私なのか)という問いは、現象学的反省と呼ばれる。
 ジェンダーフリー再帰的だとは、男女に同じ振る舞いを期待するというより、どんな期待ももはや自明ではないという意識とともに期待がなされるからだ。 そこでは選択への期待の前提もまた選択されている。








二種類の再帰性と、その二重化(宮台真司)

■「『文庫増補版・サブカルチャー神話解体』 あとがき

 再帰性reflexivity)概念には、社会学に限定すれば、社会システムに準拠したルーマン的用法と、人格システムに準拠したギデンズ的用法とがある。説明しておこう。
ルーマンの用法は、ベイトソンGregory Bateson)経由で数学概念を転用したもので、学習についての学習に見られるような「手続きの自己適用」を意味する。私はやや転用し、「選択と同時に選択前提もまた選択される」という非自明的な選択の在り方を指して使う。
■ギデンズ(Anthony Giddens)の用法は、言語学に由来するもので、自己を対象にするような行為の質的変化を指す。カウンセリングやニュース解説が氾濫する社会の中、人々の行為は多かれ少なかれ、「行為記述を含めて予め知られた自分」をなぞる以外なくなる。
ルーマン的用法(の転用)は、例えば「再帰性の泥沼」という私が頻用する概念に見られる通り「自明な前提の消失」という社会的事態に関係する。 ギデンズ的用法は、「全てが既知性に支配される(がゆえに入替可能性に晒される)」という実存的事態に関係する。
■前者は、社会システムが自らに必要な前提を自在に作り出す「全て手前味噌で、外がない」事態を観察する視座にとっての概念である。後者は、人格システムが自らの固有性を知ろうとして却って自らを一般的対象へと拡散する事態を観察する視座にとっての概念だ。
■両者の間に密接な理論的関連があるが、詳しくは述べない。ただ両者が相俟って謂わば人間学的問題を惹起することは夙に知られる処だ。

■即ちここに於て、ルーマン的概念に即した「泥沼の再帰性が──「社会の底が抜けている」との感覚が──顕在化することになる。先に触れたルーマン再帰性概念とギデンズ的再帰性概念との間の密接な理論的関係を、証左するような事態が訪れたということだ。
■理論的には「晩期資本主義における正統性問題」(ハーバマス Jürgen Habermas)が噴出する。第一に、感情より大切な正統性原理を見出しにくくなる。第二に、まともな感情の働きとそうでないものの識別原理が不明になる。相俟って不安のポピュリズムを来す。