必要な概念について(引用のおことわり)

このブログでは、「ひきこもり」についてずっと考えてきたのですが、
ここ数ヶ月で、「終わりなき再帰性から、事後的な分析へ」という枠組みが形になってきました。
これを記している今日は11月12日ですが、このブログの11月6日以降に、
どうしても参照しておきたい以下の諸概念について、いくつか解説を引用してみます。

  • 「公正さ」 fairness (英) (ロールズ、政治哲学)
  • 享楽 jouissance (仏) (ラカン精神分析
  • 「欲望」 désir (仏) (以下、精神分析
  • 症状(症候) symptom(英)  Symptom (独)  sinthome (仏、ラカン
  • 超自我 Über-Ich (独)  superego (英)  surmoi (仏)
  • 死の欲動 Todestrieb (独)  death instinct (英)  pulsion de mort (仏)
  • 反復強迫 Wiederholungszwang (独)  repetition automatism (英)  automatisme de répétition (仏)
  • 欲動 Trieb (独)  drive (英)  pulsion (仏)








「事後性」 deferred(英) Nachträglichkeit(独) après-coup(仏) 【フロイト】

精神分析事典』p.164

 心的生活の特殊な時間性および因果性の次元について言われるもので、記憶から除かれた印象あるいは痕跡が、完全な意味、完全な効果を発揮するのは、最初の刻印のときより後でしかないという事実をいう。



知の教科書 フロイト=ラカン (講談社選書メチエ)』p.68〜 「事後性」 「心的外傷」

 たしかにラカンは、「シニフィアンシニフィエ」というタームをソシュールの構造言語学から受け継いだ。 だが、言語学的事象をあくまで「シニフィエ=概念」と「シニフィアン=音声」という二領域の「境界地帯」にかかわるものとして位置づけていたソシュールに対して、ラカンは明確に「シニフィエに対するシニフィアンの優位」を唱え、シニフィエシニフィアンの「効果」へと還元した。 つまりシニフィエは、ラカンにおいて、シニフィアンとは異質な独立した領域を構成してはおらず、「シニフィアンの連鎖によって生産されるもの」という二次的な身分を与えられているにすぎない。 このことは、ラカンソシュールの「シニフィエシニフィアン」の図式を逆転させて、「S/s」(大文字のSがシニフィアン、小文字のsがシニフィエ)と表記したことに端的にあらわれている。
 それでは、シニフィアンはどのようにしてシニフィエを生み出すのか。 ラカンは、まさにこの問いに対して「シニフィアンの遡及作用」という答えを用意した。 曰く「文はその最終のタームを待ってはじめてその意味形成に留め金をかける。それぞれのタームは、他のタームからなる構築物の中で先取りされているが、また反対に、その遡及的効果によってこれらのタームの意味を確定するのである」(É:805)。 たとえば、「私はフロイトを読む」という文を考えてみる。 「私は」というタームを発しただけでは、あるいは、それに「フロイトを」を加えただけでは、まだ意味は到来しない。 「私はフロイトを」という二つのタームからなる構築物は、それらの意味を刺し止めてくれる次のタームをさらに待望し続ける。 そして、「読む」という最後の語がついに発話されるとき、それによってはじめて、それまで不確定だった文全体の意味が「遡及的に」決定されるのである。
 この「シニフィアンの遡及作用」は、なにも文の意味の決定のみにかかわってくるメカニズムではない。 ラカンにとって、およそ因果関係なるものはすべてこのメカニズムに依拠しており、何かが「原因」となり、また「結果」となるのは、それらが一つの「シニフィアンの連鎖」の最初と最後の項を構成するかぎりにおいてである。 そしてそのように述べるとき、ラカンは明らかにフロイトの「事後性」と「心的外傷」とを念頭においており、それゆえ「事後性」を「外傷がそれによって症状の中に伴意されるところのもの」(É:839)と定義づけてもいる。 実際、フロイトにおいて、「事後性」は病因論の不可欠な要素であり、「心的外傷」の時間性そのものを名ざしているとさえ言える。
 フロイトのテクストの中に「事後性」というタームが最初に現れるのは、1895年の「心理学草案」において、より正確には、そこで報告されているエマという少女の症例においてである。 彼女の訴えは、一人で店に入ってゆけないというものである。 フロイトとの分析において、エマはまず、彼女が12歳のときのある経験を思い出す。 【中略】
 ここに見出されるのは、外傷になった出来事(8歳)と実際の症状のきっかけとなった出来事(12歳)との間の時間差である。 【中略】 つまり、12歳のときの出来事が、8歳のときの事件の外傷的な意味を、遡及的に浮かび上がらせたのである。 「一つの記憶が抑圧され、それがただ事後的に外傷となった」(GW,Nb:448)とフロイトは記している。
 こうして、フロイトにおいて、外傷とは何よりも、事後的に、つまり遡及的に、意味(シニフィエ)を与えられるシニフィアンである。 このように見てくると、ラカンによって刷新された「事後性」の概念は、実はフロイトの中にそのまま再発見されうるのだということがわかる。 そして私たちは、今日のPTSDをめぐる議論において完全に通俗化された「外傷」の概念が、フロイトのそれからどれほど隔たったものであるかということにも、思い至らざるをえない。






「事後的な分析」という、決定的な要因

事後性の概念を、「成功者の鏡像的自己確認」、つまりナルシスティックな耽溺(自尊感情の獲得)のことだと理解している人が多い。 「すべて終わった後に、うまく行っている自分に気付いて悦に入る」、つまり「うまく行ったことは事後的にしか理解できない」と。
これは、人間個人の社会化を、マルクスの商品論で理解することだといえる。 「商品は、売れた後になって初めて商品であると確証される」。 人間の社会的行為(social action)も、相手にそれと理解されて、象徴的な誕生を待って、初めて社会的=人間的であり得るのであり、さもなくばそれは「社会化されていない」、つまり「人間ではない」営みなのであると。
しかしこれでは、遂行=推敲される労働過程は、鏡像的成就をしか目指していない。 最初から疎外されている。 ▼プロセスとして実現される分析の労苦は、ひとまず「徹底的に考えてみる」ということでしかない。 どのような結果が出るかは、「やってみなければわからない」。 事前には思いもよらなかったような、グロテスクな結果になるかもしれない。 そのような結果になるかもしれないことまで含めて、容赦なく分析を遂行するところに、分析努力そのものの公共的性格がある。 事前に想定された「公共性」の理念を裏切ってしまうかもしれない徹底性にこそ、分析という労働行為の公共的性格があるのであって、鏡像的な成就を目指すものは、ナルシシズムを目指すエゴでしかない。


また、賭けの要因がなく、どんなありようをしても「事後的には承認される」のであれば、それはニューサイエンス系の「どんな君でもいいんだよ」でしかない。 「社会に出さえすれば承認される」とか、「ありのままでいい」など。 現実には、もちろんそんなことはあり得ない。 現実にはあり得ない承認ロジックを口にし、それによって自分のアリバイを得ているとしたら、そこには独り善がりがある。 ▼「万能の承認ロジック」を口にする人間は、その「絶対に正しいはずの言い分」を主張することにおいて自分への承認を無条件に押し付け*1、「万能の承認ロジック」を認めない人を承認しない(自己矛盾)。 「万能の承認ロジック」を批判する者は、恫喝されかねない。







*1:「肩を組もう」を押し付ける暴力の下品さ

「行為の事後遡及的成立説(の謎)」(酒井泰斗 contractio さん)

 どうしてこういうヘンな主張が ある種の──しかも個々にはみな優れた──社会学者たちの間に広く受け入れられ、再生産され続けてきたのだろうか。 (ex. isbn:4326652551isbn:4326601604








「再帰性」という永久機関への同一化

    • 【2007-06-11追記】再帰性や事後性に関するこの当時の私の記述は、今から見るとぜんぜん駄目。 あらためて勉強を続けます。

「終わりなき再帰性」は、それだけでは合理的検証の無限ループ(「臆病な発想」)に陥る。
これは、クラッチを失ったエンジンのような状態であり、ひきこもりの不毛な暴走状態そのもの。
そこで、

  • 「終わりなき再帰性」という永久機関をエンジンとし、
  • 事後性(フロイト)の見地から、「事後的な分析」の時間軸を、駆動構造としてそこに仕込む。


    • 「終わりなき再帰性」という《症状=非合理=未規定性》の枠組みに、「事後的な分析」という労働行為をもって同一化する。
    • 終わりなき再帰性という《症状=過剰性》を、「遅れてやってくる労働」の現場として、《自分自身》として、再帰的に生きてみる。 伝統を選ぶように、症状を選ぶ
    • 事後的な分析において生きられた「終わりなき再帰性」=「終わりなき分析」(フロイト)の枠組みそのものを、倫理的=社会的に生きるスタイルとする。

このような再帰的選択において、「不可能であることが分かっていて、あえてやっている」というようなアイロニカルな自意識が、わざわざ必要だろうか――というか、そのような自意識が残り得るだろうか。
公共的な労働行為としての「事後的な分析」には、過剰な情熱(享楽)がある。

【メモ追加】(こちらにあったもの)

  • 「どんな自己決定にも伝統が反映する」をなぞらえて言うならば、「どんな意識的決定にも、無意識の(症状的)影響がある」。
    • cf.「ユビキタス社会は無意識を二重化する*1」(斎藤環)。 私たちは、すでになにがしかの被‐決定的な、主意主義的な振る舞いを見せている。
  • 「選択する主体の一貫的統合機能」は、「終わりなき再帰性」の構造として、すなわち非合理な情念の構造として、実現されている。 その構造への同一化として、再帰性は「終わる」。 再帰性への同一化において、再帰性が終わる。
  • 無意識の影響を伴った症状そのものに同一化すれば、それは脱力させる自意識とは別の営みになる。




*1:ICC オープニング・シンポジウム 「ネットワーク社会の文化と創造」より