「美しさは倫理を犠牲にしている」(斎藤環)

先日の対談イベントより。
児童労働がひたすら美化される宮崎駿アニメや、『美しい国へ (文春新書)』(安倍晋三)を例示しながら、「働くことは美しい」という思想や言説が問題化された。
斎藤環氏自身は、個人的な美的感覚としては「働くことは良い」と感じるが、それは倫理的判断とは別に考えるべきだという。
それを受けて考えれば、
フィクションやドキュメンタリーにおいて、ひきこもり当事者(を意味する人物像)が、「気色の悪い男」として描かれたり、逆に過剰に美化されるとしたら、それは「美的なものが倫理を犠牲にしている」と言える。





「関係性」と「コミュニケーション」の相違について

今後の議論にどうしても必要なモチーフだと思うので、引用します。
id:kwktさんによるレポート「モバイル社会における技術と人間」の、斎藤環氏の発言より(強調は引用者)。

  • 「関係性」が前景化し問題化される。
    • 「関係性」と「コミュニケーション」は違う。 両者の差異がユビキタス化によって段々と際立っていく。
    • 「関係性」は固有性に依存する。 「コミュニケーション」は匿名性に依存する。 メディアの発達によって「コミュニケーション」の過剰と欠如の両極化が進み問題となっている。
    • 「関係性」と「コミュニケーション」は記述が可能か不可能かで区別できる。 「コミュニケーション」の主体はスペックを記述できる。 「関係性」は記述を超えた部分で発生し、「コミュニケーション」に回収・還元できない関係の深まりがある。 「コミュニケーション」関係においてはそのような「関係性」の構築は極めて困難。 ユビキタス社会では「関係性」が起こりにくい。

以下、個人的なメモ。

  • 「関係性」は、事後的にどうしようもない絶望として「気付かれる」ものであり、操作的希望として利用するもの(コミュニケーション)ではない。 スペックに踊らされた「コミュニケーション」だけでは、致命的キッカケにならない。
    • 親子関係や、「できてしまったつながり」が関係性に当たる。
    • 誰かを本気で好きになってしまって苦しむときもそうだと思う。
  • 非日常の火を消し去って(ごまかして)維持される「コミュニケーション」は、利便性はあるが窒息感は強まる。 ひきこもり的な再帰性に取り憑かれた状態では、「コミュニケーション」には取り付く島がない。
    • 私は今でも、「コミュニケーション」だけの人間関係にはなかなか入っていけない。
  • 関係性の絶望(しがらみ)の事後的・遡及的分析――そこにおいてトラブルは普遍化され、固有名詞は「問題の構成要素」と化す――の中に、取り組むべき仕事を見つけてゆく。
    • 「コミュニケーション」はストレスなだけ。 「関係性」にしか意味はないし、遡及的分析がなければ、公共性へ向けての探求がない。