映画『ゆれる』

みてきた。
個人的なことだが、このタイミングで観れたのはすごい。
自分の書こうとする、口にしようとする言葉について、「西川美和氏に聞かせても恥ずかしくないだろうか」という基準ができた。*1
以下、印象深かったものをランダムに並べてみる。 ▼激しいネタバレはないはずですが(作品を作ろうとする姿勢についての話が多いです)、先入観なしに映画を観たい方は、ご注意ください。





*1:このblogのエントリーのいくつかは、恥ずかしい。 それについてもまた考える。

西川美和監督インタビュー 1

http://www.cybercrea.net/culture/note_060627_01.htm

「映し出されているものが単に私特有の欠点ではなく、多くの人が抱えているであろう内面の矛盾に通じればいいなっていつも思うんです。 作品を世に送る時に、多くの人が共感できればいいけれど、という不安があります」
 ――自分の中にある負の感情をつむいで脚本化していく作業は苦痛ではないのだろうか。
「苦しいという感覚はないですね。むしろ自分が物を書いたり、作品を作ろうと思ったりするきっかけ、もしくは根幹は、自分自身の内面を切り刻むことではないかと。 ある意味、作ることというのは、自分自身に対してサディスティックな行為だと思っているので、淡々とやってるんです。 それが仕事ですから」
 ――きっと鶴が必死に自分の羽をとって反物を織るような作業なのに、それを自ら選んだ“仕事”ときっぱり断言する潔さが清々しい。
「登場人物はすべて自分の分身だったりするので、彼らには私自身がもっているいやらしさや、恥ずかしいコンプレックスが入っていたりします。 ある程度自分を痛めつけないと、人にも通じないと思うんです。 それができれば、それが物語を作る核になるというか」





http://ent.nikkeibp.co.jp/ent/career/01/index.html

 何年か助監督をやってきたなかで本当によかったなあと思えるのは、会社とかの枠組みで縛られているのではない、人間関係を築くことができたこと。 お互いの仕事の正確さとか信頼感だけでつながった関係ですね。 一度そういう関係性が確立されれば非常に温かいところがありますが、逆に言うと信頼関係だけで結ばれている関係なので、言葉のたったひとつで崩れることもある危ういものでもある。 だからこそ、仕事をしてきた経験そのものがものすごい財産だと思います。

 実は次回の新作も夢がヒントになっていて。 夢に発想を得てばかりだと不安だな、この先(笑)なんて。 その夢が、ものすごく窮地に追いやられるものばっかり。 そのときにとる自分の行動というのが、人として間違っているんじゃないかなぁ、なんて思うことがありますね。 夢って自分の潜在意識が出るらしく、結構ズルいことをしている(笑)。 でも、そんなズルさも、自分の知らない一面だったりするから興味深くて。

 夢のなかでは理性で抑えることのない「本当の自分の人格」が出てくるから面白いなあって思っていて。 一番よく知っているはずの自分に対しても新たな面を知るくらいだから、夢には“人間の複雑さや不可思議さ”を知ることができるチャンスがあると思う。 そんな、人間の奥深い心理を作品のヒントに生かすことはあります。

 自分が“本当に面白い”と思ってやることでしょうか。 この仕事は生活のための職業にしてはあまりにも割が合わなすぎるので、「食べて行くための手段」では決して無いと思うので。
 興味を持てないのにやっていてもしょうがないと思うから、持てなくなったら辞めたほうがいいと思いますしね。 私は常にそういう心積もりでいます。






西川美和インタビュー 2

http://eonet.jp/cinema/interview/060713_interview.html

 人間関係のもろさや危うさ、記憶のあいまいさなど抽象的なものをテーマにしたかった。 でもそれだけを漠然と露悪的に描くだけでは、観る人は途中で耐えられなくなってしまうかも知れない。

 私自身にとって「家族」は、非常に興味深い題材です。 1作目は「家」、そして今回は「兄弟」。 奥深いモチーフなので、今後もきっとそこから離れられないと思います





http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/21/20060821000000.html

 「こんなにリアルで残酷な現実を突きつけられたとき、それを受け入れるだけの土壌が日本にはない」





http://www.pretty-online.jp/select/179.html

 西川監督は、この作品を作っていて、映画を作るということは、周りの人の意見から何を取り入れるべきかということを自分の中で採択しながら進めていかなければいけないと感じたという。 「本当にたくさんの人がいろんな意見を言うんで、戸惑うこともあったんですけど、私にとって、言ってもらえるっていうのが幸せなことだと思う」

 「2人とも非常にイヤらしい部分も持っている人間であると同時に、そこが非常に愛おしいところだと、私は思っています」





http://www.tokyoheadline.com/vol263/inter04.html

 「人が人に対する思いというのは非常に複雑で、また1つの行動を1つの感情が支配しているわけではない」





http://www.wowow.co.jp/cv/vol236_jp.html

 私もやっぱりある程度の高いモチベーションでこの物語を創ってきてるから、仕事という風に割り切られてやられると、そこでのバランスが悪くなって…なんかこっち(自分)がしらけちゃうなと思ってですね。

 人に観せるために、観客に観せるために、いろんなことを感じてもらうためにと思って、長い時間を大事に使って丁寧に創ってきて。





http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200607050532.html

 自らの深層心理も映し出す夢を映画に翻案することについては「恥ずかしいという生々しい感情がなければ、映画は説得力を持たない。 自分をさらすのも仕事ではないか」と話す。

 「自己満足で趣味の延長、生産性のない仕事だと胸を張れなかったんです。 でも、世界には血眼になって映画を求める人がいることを知り、勇気がわきました」





http://www.campusnavi.com/jcfmovie/jcfmovie_7th/intv/7th/06/06_nishikawa.html

 でも何かのきっかけで、自分が思っていたような自分じゃない部分が露わになって、自身に失望する時がある。 私の場合はどういうわけか、そういう時が「ものを書いてみたい」という動機になることが多いですね。

 私は、人間が非常事態に犯してしまう悪事に対して、割と身近に感じてしまうことがある。 そういう部分と、自分の持っている、人には言えない暗い汚い部分っていうのが、非常にリンクするように思うんですよ。

 いいとも悪いとも、あまりピンともこないし、文句も出てこない。 文句が浮かばないってことは、監督としての才能がないのかもしれない、やっぱり向いてないなって思ったんですよ。 じゃあ何になるかって色々考えた中で、唯一脚本を読む時だけは、なんでこういう下手なト書きの書き方しかできないんだろう、なんでこんなリアリティのないセリフを書くんだろうっていう文句が浮かぶんです。 そこに我が出るということは、私はそこに向いているんじゃないかって。 全く根拠もないし、頭でそう思っていても、優れたものが書けるか分からないけど、脚本というものにだけは、根拠のない自信を感じてしまった

 でも常に、自分の仕事の中のウェイトは、「書くところ」にあって、その部分ができていれば、あとはパスできると思っています。

 何だか自分が世間の日陰者みたいな感じがしてくるんですよ。 職業として成立していないというか…。 実際そうなんですけど(笑)。 映画なんか撮っていたって、最終的には野垂れ死にかもと感じてしまうので、そういうシステムを変えていかなきゃいけないと思っているんでね。






西川美和インタビュー 3

http://flowerwild.net/2006/07/post_2.php

 「恋愛関係が、結局のところ、相手の他者性を直視する以前に解消することが可能であるなら、家族という関係性は、隠蔽されていた個々の欲望やエゴの真実が露呈し、取り返しのつかない亀裂が生じても、そこから容易に逃避できない「足かせ」にもなり得る。」(石橋今日美、インタビュアー)

 日本でひとりシコシコ脚本を書いていたりすると、自分のやっていることに意味があるのか、誰が映画なんか観たがっているのか、とすごく不安に潰されそうになるんですが、カンヌに行って世界の人がこれだけ映画というものを欲していて、映画というものを要求しているんだという姿を目の当たりにした時、「ああ、映画を作っていていいのかな」と勇気付けられた気になりました。

 私自身、この作品の主人公には相当の情熱をかけて取り組んだので、映画作りに対して徹底的にまじめな人に引き受けてもらいたい、という思いが強かった。

 「自分自身の、かろうじて俳優という仕事をすることで押さえきれている、自分の暗部や悪意を表現してくれているから、すごく言い当てられている」(香川照之

 私は、恋人はまだ描けないですね。 恋愛というジャンルはなかなか食指が動かなくてね。
 私が描きたかった関係性の難しさは男女のそれではなかったんですね。

 「家」というものの下にある家族的な絆とその奥に眠っている矛盾や不自然さ、それでも断ち切れないお互いへの煩わしいくらいの愛情……というものは、書けば書くほど奥深くて、自分自身、とりくんでいて非常に魅力的だし面白い。

 やはり、家族とも友人とも大切な人とも確実につながっていたいと思うし、相手を全面的に信頼していたいし、理解していたいと思うけれども、そうありたいと思っていても、うまく行かない、ということを人生の局面、局面でみんな経験していると思うんですよ。

 つながりたいという意志も、また自分のことをかばいたいというエゴも含めて、人間が持っている弱さや、業みたいなものを描いていきたいんですよね、映画で……。

 そこで露になっていくドラマが非常にヘビーなので、何らかのエンターテイメント性をのせないと、観客が途中でギブ・アップしてしまうのではないかと思ったのですね。

 人間の移ろいであったり、ここで露になる内面のドラマであったりという主題を外してサスペンスに没頭されることが一番恐かったので、サスペンスフルなんだけど完全なサスペンスになり切らないようなさじ加減というのに非常に時間をかけました。

 映画作りはパートとパートの集合体の作業なので、そういう風にものを考えてくれる人とじゃないと組めない、という意味では私はすごくいいパートナーだなと思います。

 共犯関係にない人を撮る、ということをする土台が私にはないんですよ

 やっぱり、書くということが私にとって、映画作りのプロセスの中で純粋に一番楽しめる作業なので、それは失いたくない。 だからその結果仕上げた脚本を俳優さんが、納得して、気に入ってくれてやってくれるのであれば、その方法論は続けていきたい

 作品に描かれた人間のドラマの中に、自分が抱える小さな問題や悩みに共通するものを見出すことで、世界を広げられたり、救われてきた。 だから自分がみせられてきた様々な映画に倣うように、私も観客が自分自身をスクリーンの中に見出すことのできる映画を作りたいな、とは漠然と思っています。






西川美和インタビュー 4

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/topics/20060630et03.htm

 何度聞かれても、答えに窮する質問がある。 「なぜ女性のあなたが男の兄弟の話を撮ったのか」。 日本で数少ない女性監督への関心からだろうが、「異性の物語に挑戦しようとか、“男”という生き物をひもとこうとしたのではないので、分からない」と当惑する。

この作品を「女性が撮った」という事実で、僕は(たぶん)すごく救われている。

 自分のことにしか関心がなかった猛は、兄の内面と向き合わざるをえなくなる。 「人との距離の取り方とか、人に対して発した言葉の責任について省みるようになることで、人生が変わってくる。 それは男も女も関係ない」

 「『女性にしか分からない繊細さを描いて』と言われたらできなかったかもしれない。 だけど、男性の視点で客観的に女性を見ることが許されたので、私にもできると思った」

 「自分で物語を編みたい。 それ以外の方法をとってまで、映画を撮りたいとは思わない」





http://www.kansai.com/music/sp_live/index_060727_2.html

 スタッフとは経験を重ねるごとに互いの長所を出し合えるようになるものです。 だから本当に信頼できるスタッフのことは一生離したくない。 「音楽」に対しては阿修羅のごとく厳しく真面目なカリフラワーズも、私にとっては大切なスタッフの中の1チームなので、もし、また恥ずかしくない脚本が書けたら是非お願いしたいと思っています。





http://www.j-wave.co.jp/original/futurelounge/f_topics/topics06_0708.html

 心情を伝えるのに、映画では視覚的なものか聴覚的なものに頼るしかないんですが、今、自分が心の中で考えていることを言葉にはしないじゃないですか。

 やはり、しばらくは映画を作る努力をしていこうと思いますけど、今回、撮影が終わった後、『ゆれる』の小説を書かせて頂いたんですね。 その体験が自分にとってすごく面白くて、小説は、目に見えないことをいくらでも表現できるんですよね。 その時、小説で出来ることと映画で出来ることの違いが、自分の中ではっきり確認出来たので、また脚本作りに新たな気持ちで臨めるかも、という気分になりました。 でも、小説は本当に面白かったからまた書きたいなと思っています。






ほかリンク集



http://www.sankei.co.jp/enak/2006/mar/kiji/23yureRu.html

 オダギリは「(西川の才能に)嫉妬しました。嫉妬というより、手の届かない才能に悔しくなった。だから、僕は撮影のなかで物語を膨らませ、歯向かうことしかできないな、と思っていました。」
 「何も知らずに街で出会っていたら『付き合ってみようかな』と思うタイプですが、この外見に閉じ込められた“黒いとぐろ”を知ってしまった以上、彼女には畏(おそ)れすら感じます」と、香川は彼らしい言葉で絶賛する。



http://4510-mw.com/site/ej/report/060613/

 「みなぎる映画的緊張感は一瞬もゆるむことなく、見た後、心揺さぶられる。」