「被害者」

古いVHSビデオの整理をしていて、1997年4月16日夜に録画した番組*1を見つける。 地下鉄サリン事件から2年がたち、何人かの被害当事者の「その後」を取材したもの。 ホストは切通理作id:PaPeRo)氏。 ▼被害者の一人に、田中さんという20代の女性がいた。 田中さんは事件当日、地下鉄日比谷線車内で被害に遭い、茅場町駅で下車し、直後ホームに倒れた。 日比谷線では7名が亡くなっているが、そのうち2名が、自分が降りた茅場町駅から乗車していることを知り、以来激しい罪悪感に苦しんでいる。 インタビュー中にも、田中さんは「止められたかもしれないのに」「自分だけ現場から逃げてしまった」と泣く。

切通  でも田中さん倒れてたんでしょ?
田中  うん
切通  ・・・・自分だけ逃げてないでしょ。
田中  でも結果的には逃げてる・・・・(泣く)

事件以来の2年間は、たまに買い物に行く以外はほとんど家に閉じこもっていた。 ろくに食事を摂ることができず(食べてもすぐに吐いてしまう)、1日中いつ起こるかわからない嘔吐発作、手の震えが止まらない、などの症状に苦しんでいる。 生活が一変してしまった。


田中さんに切通氏がインタビューするシーンの一部を、逐語的に文字起こししてみる。

切通
たとえば僕のように、直接被害を受けていない人間からしても、多くの犠牲者を出した事件で、許せないという思いを持ちますし、謎だという感じもありますけども、それは第三者でない直接被害を受けた田中さんとしては、その被害者の田中さんとして、オウムに関して思われることっていうのはありますか。
田中
うーん・・・ なんか、不思議に、なんていうのかな・・・怒りとかはなくて、逆にまわりのほうが、すごい怒っちゃってる、怒ったりとかして、・・・・わたしーは、・・・・だから・・・・オウムに対しての怒りはないんだけど、なんか、犠牲になった人のことを思うと、悲しくなる・・・?・・・・うーん、だから・・・ 自分も被害者なんだけど、怒りはない・・・?・・・うーん・・・(頷きながら)・・・・なんでか不思議ですけどね・・・・怒りはないですね・・・やっぱ自分の中で、・・・うーん・・・・やっぱりあの事件を・・・・まだ、 うーん・・・現実のものとして受け・・・ うーん・・・ 自分の心の中で整理がついてないのかな・・・・ なんか・・・ ひどい目に遭ったことは遭ったけど、だから憎たらしいっていうのがないんだよね。 ・・・・自分でもよくわからない。 なんで憎たらしくないのか。 よっぽどなんか、それこそ憎たらしいと思えれば、今の症状から脱出できるかもしれないのに・・・・・なんでだろう・・・・ やっぱりまだ自分を責めてるところがあるから・・・・・・自分でもよくわかんない・・・・・なんで憎たらしくないのか・・・・・・・

田中さんは、終始 不思議そうな顔つき。





*1:「終わらない悪夢 地下鉄サリン事件 ある被害者の軌跡」。 放送局はNHKっぽいが、詳細は不明。 私の録画は番組の途中から。

「アイデンティティ」(引用集)

「不機嫌な日常」(松浦大悟氏)のリンク先より。 すべて、上野千鶴子・編『脱アイデンティティ』への批判。(強調は引用者)


藤井誠二氏:

 上野さんが書くような、「被害者は、トラウマ的過去の一時点に、これも反復強迫のように立ち戻り続けることで、被害者という立ち位置に固定されるのだろうか」という問いかけは、当の被害者が中心となって議論をするべきである



伏見憲明氏:(柄谷行人世界共和国へ』からの引用)

 「たとえば、昨日の私は、今の私ではない。それらが同じ一つの私であるかのようにみなすことは仮像である。しかし、そのような仮像は生きていくために必要です。今の私は昨日の私と関係がないということでは、他人との関係が成り立たないだけでなく、自分自身も崩壊してしまう。だから、同一の自己が仮像であるとしても、それは取りのぞくことができないような仮像なのです」



宮台真司氏:

 むしろ昨今は、民衆が解離的であることを前提にした管理テクノロジー[人間がマトモでなくとも社会をうまく回す社会工学]こそが、不透明な権力(建築家的権力)を構成する時代になりつつあります。 「(弱者が)同一性を強いられる時代」から「(誰彼構わず)解離を強いられる時代」へと急変しつつある中、素朴な解離の賞揚は反動以外の何ものでもありません。






「怒り」と「罪悪感」は、ものすごく扱いにくい感情だと思う。

でも、逆に言うとそこにはものすごい電圧があって、だからものすごい動機づけになるかもしれない。 拙著でもわずかだけ触れていたが*1、この辺のことはどう扱っていいか、ずっとわからずにいる。 あらためて重要なモチーフだと感じ始めているので、いくつかメモしておく。

  • 怒りを、《内発的な社会的動機づけ》とは見れないだろうか。 ▼「悩み」は個人的だが、「怒り」は、最初から一定程度社会的。 「悩み」ではなく「怒り」なら、他者も批判的に扱いやすい(怒っている本人が独り善がりでしかない場合も多い)。 ▼玄田有史氏は、「怒るために仕事をするってのはどうだろう」と提案しているが、重要なヒントだと思う。 「働かなければならない」という要請は、「生き延びたい」という欲望を条件とするが、「絶対に許さない」というのは重要な欲望だと思う。 いやむしろ、「許せない」という感情から、遡及的に欲望が明らかになる。 ▼問題はむしろ、「そこまで執念深く怒れるか」ということ。 怒り続けるのは苦しいし、生活感情を蝕んでゆく。 → 怒りの断念は、「欲望の譲歩」(ラカン)に当たるか?
  • 激しい罪悪感は、自分への激しい怒り。
  • 長田百合子氏の引きこもり支援を取り上げたTV番組で、長田氏が相談者の家に乗り込み、両親をせきたてて親子対決させるシーンがあったが、親はいったんは怒鳴りつけ、息子の体を引き倒したものの、すぐに途方に暮れてしまった。 長田氏はそれを見てため息。 無理すぎる。 ▼怒りは、外部から強制するものではない。 むしろ眠っているエネルギーにどう手続きを作るか、という問題だと思う。 暴力的に激発させればいいということではない。
  • 怒りについては、「個人的なケア」と、その怒りを担保する「社会制度」の問題をひとまず分ける必要がある。 個人的な愛情関係においては無限のケアがあり得ても、社会的にはそうはいかない、など。
  • 「解離の称揚」は、「怒り」とどう関わるのだろうか。 それは、「泣き寝入りしなさい」という要請になる? ▼外部から怒りを断念させることは、それ自体が「権力的な内面操作」だし、動機づけの重要な要素を奪うことになる。
  • 怒りは、多くの場合本人にも自覚されていないか、自覚されていてもうまく扱えていない。 私の場合、廃人のような無気力に沈むか、激怒に取り憑かれて何もできなくなるか、という両極端の往復が多い。 無力感なんだと思う。
  • 怒りを治療するのか、怒れない状態を治療するのか。
    • 「怒るのをやめればすべて丸く収まる」と思いつつ、怒りをうまく飼い馴らせない。 というか飼い馴らすべきなのか? 悪しき治療主義は、「怒り続けて社会に順応しない個人」を矯正する。 ▼これは、「社会的なロボトミー」論とも言える。
    • 怒りは、個人を政治化する重要な契機だと思う。 しかし一方、怒らずにいる権利もある。
    • 「もはや二度と怒りたくない」という願望もある。 「もう二度とトラブルを体験したくない」。 ▼しかし、怒りを体験しないということがあり得ず、社会生活がトラブルでしかあり得ないなら、「怒りたくない」は「生きたくない」に近づく。 それは、「もはや二度と欲望したくない」に似る。




*1:pp.187-195、「泣き寝入り」「自分の現実を構成できずにいる」など