大野正和氏:「過労児だった私」*4
ひきこもりをテーマとする当ブログで、大野氏のこの文章を紹介するのは冒涜だろうか。 「まったく働けない人間」と、「働きすぎて死んでしまう人」。 ▼私自身を含め、大野氏のような経歴を持つ「ひきこもり当事者」の話はよく聞く*1。
閉じこもっている人の多くは、「自分のことは自分で決めなければならない」という強迫観念に支配されており、それゆえに逆に身動きできなくなっている*2。 どうしたいかが自分でもよく分かっていないくせに――というよりもだからこそ――、他者と関わることで自分が過剰に他者に支配されてしまうことを恐れる。 「他者の色に染まりすぎること」を怖がる。 「生き甲斐」や「仕事の指針」は、「自発性をもって自分で決めねばならない」と頑なに思い込んでいる――恐怖心ゆえに。 ▼他者との関係に巻き込まれることは、そのまま「周囲の人間関係に支配されること」を意味する。 《交渉》ができないから。 自分はどうしたいのかが分からないから、「こうしなければならない」で人生が支配される。 トラブルのすべてを自分が吸収する羽目になる。 自分の人生が状況に支配されるのがこわくて他者と交われない*3。
その揺らぎに耐えられない人間が他者に立ち交じって働こうと思えば、ワーカホリックになるしかないのではないか。▼「僕はニートでした」と語るある男性は、なんとかアルバイトを再開して以後、複数のバイトを自主的に掛け持ち、「自分の時間をなくしてしまった」らしい。 働き始めてしまったら、仕事に人生を支配される以外の生き方ができないように見える*4。
*1:『ひきこもりカレンダー』の勝山実氏もそうだっけ。
*2:大野氏ご自身より示唆をいただいた。
*3:もちろん「いじめ」は重要な要因だ。
*4:雇用環境の問題と、本人の性格の問題と。ここでは後者を問題にしている。
自律と他律のマネジメントの関係
他者に支配される形の依存症的没頭と、あくまで自律を保った形の没頭とでは何が違うだろうか。▼「依存症が悪い」というのではなく、私が一定の優秀さと活力を手にするには、何がしかの依存症を必要とするのではないだろうか(普通に言えば「夢中になる」だが)。
権力と協働
友人から、「企業」のとらえ方として、次の2通りあることを教わった。
・「権力関係=労使関係」
・「協働システム」
頭の固いダメな左翼は、前者の関係しか考えないように思える。
- 疑問などいくつか:
- 【ダメな左翼の典型的な集会】:「経営者」や「資本主義」がいかに悪辣かを語り、その批判に頷きあう。「ひどいよな」「だよな」。「自分たちは資本主義批判をしているのだ」というナルシシズムを慰撫し合うだけの、儀式のようなコミュニケーション。▼しかし本当にこれを語るしかない人は、やはり切羽詰まって、恐怖心ゆえにそうするしかなくなっているのか。
- 「経営者」を糾弾している人たちは、では自分自身が会社の舵取りを任されたら、労働者に文句を言われない労務管理を遂行できるのだろうか。そんなことをしていたら、会社はすぐに潰れてしまうのではないか。▼権利要求はもちろん重要だが、「こうすれば労使ともに益になる」というような「対案」を出すことが最善ではないか。(それができないから、ひとまず権利要求をするしかないのか。) ▼というか、経営者の現状が本当にひどすぎるのか。だとすれば、どうして労組系の運動はこれほど説得力を失っているのか。
猶予
いったん生まれ落ちてしまったら、死ぬまで「避難所」はない。
村上龍:「自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか」
あのくらい集中して書いた作品、他の作品でもそうですが、「きっかけ」とかないんですよ。「きっかけ」って、すごく簡単なイメージがあるでしょ。お二人が知り合ったきっかけは? って結婚式で司会者が口にする馬鹿な質問があるけど、小説家が、この対象を小説のモチーフとして使おうとか、本場で勝負するために海外に出るアスリートとか、そういうのは「きっかけ」じゃないんですよ。決定的な出会いとしか言いようがないものです。
必ず聞かれるんですよね。『13歳のハローワーク』を書いたきっかけは、とか。きっかけなんてないよ、というと話は終わっちゃうから、ま、いろいろ話はしますけどね。でも、僕は、そんなもんじゃないと思うんですよ。たとえば、ソニーのウォークマンを作った人に、「ウォークマン作ったきっかけは?」と聞いても答えられないはずですよ。殴られるかもしれない。イチローに、大リーグに行ったきっかけは、と尋ねても答えられないでしょう。自分の中の必然性に従っただけでしょうから。僕らの小説もそうなんです。
いまの世の中、きっかけさえあれば誰だってできる、というバックグラウンドに支えられている。やらなかった人は、「自分にはきっかけがなかっただけ」と思いたいわけですよ。でもね、出会いはすべての人にあるんです。それを自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか。捉えた後に、シビアで科学的な努力ができるかどうか。そういうことなんです。だから、「きっかけ」という言葉にはなんの意味もないんですが、その言葉が非常によく流通する日本社会って何なんだろうとよく思います。
「ひきこもり状態の経験者」である僕が、最もよく受ける質問の一つが、「元気になれたきっかけは何ですか?」*1。
「出会い」の要素は絶対に重要だけど、それが「出会い」になるのは、こちらに相応の必然性が準備されていたからであり、それを「出会い」として受け止める開放的な態度と、必然性の星のもとに努力を続ける執着心があったからだ――そういうことか。
- 気になること3つ:
- 執着心は合理的なものではなく非合理(デモーニッシュ)なもの。 説教や精神論の問題とは考えにくい。 むしろ、出会いによって「自分で気付く」こと。 自分にインストールされた異常な執着に気付けなければ、内発的な努力が持続するはずはない。 ▼「自意識過剰」から、「無意識過剰」に向かう必要がある。
- 「リスクを選んで努力する」という要因を重視することにはぜひ同意したいが*2、それだけでは、自己責任論「だけ」になる。 ▼ただ個人レベルの指針としては、そう言うしかないか。
- カギは、おそらく≪禁止の導入≫にかかってくるのではないか。 「無際限な自由」は、かえって極めて不自由だ。 ▼「自由をもたらす出会い」ではなく、「納得できる禁止をもたらす出会い」が必要であるように思われる。 ▼内的な必然性に基づいた禁止と没頭。