2007-06-01から1ヶ月間の記事一覧

映画『夕凪の街 桜の国』

「劇場情報」 広島は7月21日、それ以外は7月28日に公開らしい。夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)作者: こうの史代出版社/メーカー: 双葉社発売日: 2004/10/12メディア: コミック購入: 60人 クリック: 1,350回この商品を含むブログ (1142件) を見る参…

意見表明と「手続き」の政治性

「司法制度改革における裁判員制度について」 陪審制を単に司法制度として見なすだけであれば、思考をきわめて狭くすることになる。何故ならば、陪審制は訴訟の運命に大きな影響をおよぼす以上に、社会自身の運命に大きな影響をおよぼすからである。それ故、…

「本人が、自分で語ってみる」

法学(訴訟法)でいう「当事者」とちがって(参照)、ひきこもりや不登校の支援業界では、「当事者」はもっぱら弱者=逸脱者のことを指すが、そのことが議論を硬直させているように思う。 弱者が為す「当事者発言」は、単に特権化して優遇するためではなく、…

自分が固執すべきだと信じる現実にこだわるのは、迷惑行為であり得るとともに、倫理的行為でもあり得る。 何が迷惑行為で何が倫理的行為なのかは、力関係や政治的決断の問題*1。 社会参加できない存在であるひきこもりについて考えていると、「交渉」「契約…

クリップ

「新聞記事における「ニート」の使用頻度推移」(sociologically@はてな) これは重要。 「NHKスペシャル 30代の”うつ”」(Time will Tell) 読んでて吐き気がしてきた。 これじゃ、社会復帰しても無理だ。

「見なければいけない現実を突きつける」のは、迷惑行為であり得る。

見なければいけないと思う現実がお互いで違っている。(お互いで宗教が違うようなもの) 「見なければいけない現実」は、ひとまず制度的・権力的に、あるいは惰性で、だいたい決められている。「これさえ見ておけば文句は出ない」という現実の範囲や枠組みが…

「不自由の条件」

引き受けざるを得ないと思っている「条件としての不自由」の違いが、思想や立場の違いになる。 不自由は、単に制度的条件だけではない。本人の生きざるを得ない〈症候〉も、抜け出そうと思っても抜け出せない。 元気な人は、恵まれた条件をいつの間にか享受…

支援される側か、支援する側か

自分ひとりの当事者性(=不自由)を減じようとするだけなら、単に「支援される側」。卒業できるなら卒業したほうがいい。しかし、個人の努力ではどうにもならない不自由は身に負い続けることになる。 自他の不自由を減じようとするなら、運動の共有がある。…

虚無への直面

ホームレス支援をしている方に聞いたのだが、ずっと野宿生活に苦しんでいた人が、支援者の努力でようやく畳のある部屋を手に入れたとたん、自殺してしまうことがあるらしい。

「毎日新聞がコムスン問題について正しいことを書いている件」(切込隊長)

「老人」を「ひきこもり」に入れ替えても示唆的な文章。 というか、ひきこもりの場合、扶養されるのは高齢者(親)の側ではなくて子供の側なのだ。高齢化して死にゆく親が、高齢化して働けない子供を養わなければならない。

弱者であることと権力の行使

当事者であるという言い方に、(1)「支援されるべき弱者である」という意味と、(2)「紛争や力関係の責任を負っている」という意味の両方があって、弱者支援の文脈では前者ばかりが強調されるが、実は支援される側についても、後者を考える必要がある。 自分…

交渉能力の周辺

ひきこもりを、「交渉能力の低さ」と一元的に整理して考えるようになった。だとすれば、この問題をめぐる力関係を分析し、その関係を公正に調整しつつ、自分自身は何よりも交渉能力を高めるしかないのだと思う。支援される個人としても、支援する*1個人とし…

提案:かつての担任を交えたプログラム

6月1日、兵庫県豊岡市の保健所にお邪魔したのだが、その際に同行いただいた方と話していたら、私の小学校時代の担任教師の近しいお友達だということが判明。保健所で私が席をはずしている間に直通で電話連絡を取ってくださり、26年ぶりに、当時の担任教師…

「ドリーム(の後)」(宇多田ヒカル)

『他人に 用意された 夢 それを 娯楽 というんだね』

携帯電話販売員の中年男

http://www.youtube.com/watch?v=1k08yxu57NA

「体験を共有する」の難しさ

「公園で「ラジオスターの悲劇」を演奏する高校生3人組」(ひろぶろ) 素敵。 この「Video Killed the Radio Star」は、ずっと昔に深夜にやっていた映画番組のテーマソングで、隠微な画面と音楽を、真っ暗な部屋の中で一人で見ていた。 こういう記憶のことご…

memo

去勢の必要は、戦術的な要請と、倫理的な要請の両極を持つと思う。 交渉主体という意味での《当事者》という概念が、法学的な枠組みと、精神分析的な枠組み、制度改変的な枠組みなどを参照する必要がある。▼弱者性に居直ることは、単に自殺行為。どういう立…

ポストモダンと「自分の現実」

単に苦しい現実がそこにあるというのではなく、「これは自分が引き受けるべき自分の現実なのだ」という感覚が、ひどく難しくなっている*1。 茂木健一郎と高橋悠治の対談(参照)に顕著だが、いわゆるポストモダンの倫理的態度は、主観の「実感」を破壊する方…

公開トーク: 高橋悠治+茂木健一郎 「他者の痛みを感じられるか」

対談のタイトルを提案した高橋悠治が、「他人の歯の痛みはわかるか」と問いかける。 茂木が何か答えようとすると、さらに問い詰めるように高橋: 「痛みがわかる」というのは、どういうことなんですか。 (略) 「わかる」っていうことの反対は「わからない…

力関係は不可避だから、「交渉能力の向上」が課題になる

社会復帰しようと思ったら、競争主義の会社であれ、弱者擁護の運動体であれ、人間と人間の力関係に巻き込まれずにいるのは無理。交渉弱者としては、どこに所属しようとつらい目をみる、それは避けられない。問題は、「どういう力関係にだったら巻き込まれて…

「親密圏での滞留」という独特の事情

ひきこもりは、交渉能力のない個人が、親密圏に滞留した状態。これは親密圏独特の事情による。この事情を、法学や公正さのロジックで斬る試みが必要だ。一方的に家族や社会に有利でもまずいが、一方的に本人に有利なのもアンフェア。いずれにせよ、ひきこも…

社会的位置づけや正当性

病気でも障害でもなく、役割理論的に位置づけにくいが(斎藤環)、社会生活を営むための「交渉能力」が低く(理由は複合的*1)、不可避的に家にいる状態。統合失調症に見られるような「精神の質的異常」はないが、量的に能力が足らないために、社会的に disa…

 ひきこもりを、「交渉能力の低さ」として検討する 1

ひきこもりの話を、「交渉能力の低さ」として考えるようになって、いくつか検討の方針がはっきりしてきたように思う。今の時点でのメモをしてみる。

スキゾ分析の「分析」の強調と、当事者的な分析労働について

1980年代、浅田彰氏を中心に、「スキゾとパラノ」という言葉が流行った。 ここでまず思い起こされるのが、人間にはパラノ型とスキゾ型の二つがある、という最近の説だ。パラノってのは偏執型(パラノイア)のことで、過去のすべてを積分=統合化して背負って…

「アイデンティティ拡散症候群」と、「ひきうける」構図の改変

小此木啓吾『モラトリアム人間の時代 (中公文庫 M 167)』p.33-4より。 もとの文章は、1970年代の後半に書かれている。 小此木自身によれば、彼が「モラトリアム人間」という言葉をつくったのは1971年とのこと。 このような青年期=モラトリアムの延長に伴う…

「過去がついてまわる」

『横須賀・はるかぜ書店だより』:「今日までありがとうございました。」より: 支援業界(業界というには、食べらんないところです・・苦笑)に”元”当事者という立場でかかわって、いつまでたっても、何をしても「ひきこもり」という過去がついてまわる現実…

『永冨奈津恵のオールニートニッポン』

ひきこもり問題について1996年から取材を続けているフリーライター、永冨奈津恵氏がパーソナリティ。 podcasting でいつでも聞けます。 ■放送日時: 2007年3月23日(金) ■ゲスト: 玄田有史(東京大学社会科学研究所助教授、『ニート―フリーターでもなく失…

映画 『萌の朱雀』(GYAO、放映中)

なんというか・・・、昔の8mmフィルムを思わせる質感とか、まったく無名の人たちのどこでもない映像を逆に極上の瞬間に見せたり*1、・・・・・この監督の持っている「現実」への手触りは、自分とすごく近いと感じる。 80年代に僕が横目線で見ていた同世代の…

クリップ:『誰かお尻拭いてください』 (dasaitama_osamuさん)

「子供の頃の記憶」 「自信の搾取とその連鎖」 「自意識的な悩み周辺でだけ動ける」

メモ

個人の有力化とは、支配ではなくて風通しだ。