2007-04-01から1ヶ月間の記事一覧

「橋本光代さん、どうかお元気で!」(三脇康生)

強調は引用者。 医者とも、 ケースワーカーとも、事務長や管理栄養士とも、人が冷めている時は励まし(「内」を重視し)、人が熱を出し過ぎている時は俯瞰的な視点で冷ます(「外」の目で見てみる)という、素晴らしい距離感でコミュニケーションを続けてく…

リアルタイム反応で生きられる対話的分析の営み

「制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」、「分析の consistency(一貫性)」を語る三脇康生氏においては、体験をただベタに生きるのでなく、その体験されたものを後ろ向きに*1言説化することで、メタな分析を共有する。 仕事について個人…

制度論的精神療法と、「去勢のフレーム問題」

自分のまわりに組織化された世界をもつというのはそれほど単純なことではありません。 ラカンの観念は、主体の世界がうまく成りたつためには、常に最小限のシニフィアンが必要だということです。 三〇年以上にわたって続いた教育の中で、ラカンは根底にある…

バフチン「応答責任の構築学」

『ミハイール・バフチーンの世界』 p.89-94 より(強調は引用者) 1918年から1924年の間に、こうした主題をめぐるメモが、どれひとつとして完成していない一連のテクストの中に示されることとなった。 これらのテクストはそれぞれ違った著作の断片ではない。…

「作家」の機能

私にとっては、「作家」というのは、「フィクションを作る人」のことではなくて、「世界の引き受け方を提示して実演して見せてくれる人」のこと。 言葉の生産者以外にも、「作家」として学びたい人があり得る。(というか、人物に興味を持つときにはそういう…

「働いてくれ」――具体的有用労働と、抽象的一般的労働

「働け!」という説教においては、一般的抽象的な《労働》を実現することが求められている。 働けと言っている本人にとって意味のある具体的有用労働ではなくて、「何か働いたことになるようなことをしろ」と言われている。 端的に言えば、お金を稼いで、税…

「1%でしかない部分に縛られている」

仁愛大学で同じくゲスト講義に来られていた松嶋健氏の、次のような発言が刺激的だった*1。 大学教授であるとか、医者であるとか、ひきこもりであるとかいう社会的な存在理解があまりに支配的になり、私たちの意識を縛りつけている。 しかしそれは本来、人と…

「文脈」と「制度」

4月18日、三脇康生氏のお招きで仁愛大学のゲスト講義にお邪魔。 ラカン派精神分析を参照する斎藤環氏と、ジャン・ウリ*1、ガタリらの「制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」を参照する三脇康生氏は、理論的なお立場として対立関係にあるは…

実体化――「穴を詰めるような意識」

ひきこもりにおいては、意識の中の「穴」のような部分に意識が固着し、そこに自意識的に集中するのをやめることができない。 自分の鏡像を引き絞るための穴。 つねに脅迫されているような。 ▼「息を詰める意識」でようやく自分のまとまりを保っている。 対話…

「性関係はない」――去勢不安とフレーム問題

『知の教科書 フロイト=ラカン (講談社選書メチエ)』 p.96 より。 執筆は立木康介氏(強調は一部引用者)。 性関係はない! 一瞬耳を疑うようなこのラカンのテーゼは、おそらく、何よりもまず臨床的に真理である。 精神分析家のオフィスで寝椅子に横になった…

労働行為としての、「心的リアリティのメタ的描写」

無意識的に生きられてしまっている心的リアリティをメタ的に言説化し、それを共有できる体験には、言説の文脈を賦活する効果がある(参照)。 つまり、「臨床的な」効果がある。 ひきこもりに関する、「心的リアリティのメタ的描写」の活動は、いまだ「仕事…

意識的なひきうけ(想像的)と、無意識的なひきうけ(象徴的)

一般には《去勢》は、「現実原則にのっとって欲望を断念すること」とされている。 しかしラカン派においては、むしろ去勢は、「欲望を断念しないこと」の過激さのうちにある【参照:「欲望が満たされたと思い込んではいけない」】。 ラカンにとっては、順応…

切断的自意識の、防衛的で自傷的な暴走

ひきこもりにおいては、「ひきうける」という心の営みが成り立っていない(参照)として、それはまず、周囲との関係の中で問題になる。 孤立して充足しているなら「ひきうけ」なくてもかまわないが、ひきこもる以上は誰かに扶養されており、対人関係を調節す…

生きられている力関係の否認――「寸断されることへの恐怖」

「追い出す」という行為については、「かわいそう」という感想は可能であっても、行為自体を倫理的に批判することはできません。 もし、ひきこもっている彼らを完全に健常者とみなすのであれば、彼らのしていることは、見方によっては、すでに保護義務者では…

欲望と義務の優先順位

ひきこもっている人が、生まれてきたことを「被害」とのみ感じていることは、あり得るだろうか。 本当に被害と感じていたら、すでに死んでいるだろうか? あるいは、生まれてしまった以上、なにがしかの欲望を持ってしまっているか*1。 判断されるべきは、義…

「産み落とされた迷惑」という言い分

ひきこもっている人の一部は、途方に暮れた絶望の中で、「産んでくれと頼んだ覚えはない!」*1と叫び、「生きていたくない!」と言いつつ、扶養されて生き延びている。 この主観のよじれの内実については、抽象的な理論としても、具体的な技法論としても、徹…

試みていること(メモ)

ひきこもりへの単なる居直り(放置)でも、単なる強圧的な説教*1でもなく、 きれいごとだけの理想論でもなく、なるだけ客観的な情報と、規範的な公正さを目指しつつ、実際的な苦痛緩和にも役立つこと。 大局的には、本人だけで数十万人、家族も入れればその…

「解離という戦略」 → 「解離という戦術的無能力」

けっきょくのところ、自分を戦略的に解体することのできない、ひどく頭の悪い状態。 交渉・契約関係の飛び交うバトル・フィールド(社会)に、むき出しで放り出されることに耐えられない。(だから、コドモ扱い*1してくれる大人たちの用意する庇護の中でしか…

寸断恐怖としての、「意識の摂食障害」

ひきこもっている人の意識は、不潔恐怖に苦しむ人のように、いわば「正しく引き受ける」の意味とイメージ*1に支配され、逆に何も引き受けられなくなっている(端的に言えば、葛藤関係の中で途方にくれている)。 自分がバラバラになるのが怖く、硬直した自意…

与えられた生命を、積極的なものに転化すること

みずから望んで生まれてきた人は、この世に一人もいない。 私たちは、自分の生を受け身で与えられたのに、どうしてそれを(当たり前のように)積極的に生き直すことに成功しているのか。――ひきこもりにおいては、この暗黙のメカニズムが壊れている*1。 これ…

「ひきうけられない」――去勢否認と決済

4月13日、「神戸オレンジの会」のスタッフ・ミーティングに参加。 ひきこもりの心的リアリティにとって最も決定的である、「生きていることそのものが引き受けられない」というモチーフ(参照)について、あるひきこもり経験者と話題共有できた。 【「ひきう…

「権理」と「権利」

■福沢諭吉 「学問のすすめ」 今、人と人との釣合を問えばこれを同等と言わざるを得ず。 但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり。 (中略) 即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守りその面目名誉…

親子関係の非対称性

書籍『引きこもり狩り』への批判的問いとしての、「親がひきこもってしまったらどうするのか」への付記として。 ここで問題になっているのは、「権理上の親子の対等さ」だが、実は親子間では、その関係への入り方が対称的ではない。親は望んで子を設けるが、…

「交渉からの撤退」としてのひきこもり

ひきこもりは、労働や対人関係からの撤退というよりも、「交渉からの撤退」と言ったほうがより事態を正確に論じられるのではないか。 労働がなくても生きていられる人はいる。(金があれば) 対人関係がなくても、衣食住があれば生きていられる。 しかし、労…

「復帰できる文脈」と、文脈の形成力

本当にまずかったのは、内的および外的な、「復帰できる文脈」を失うことだったかもしれない。 復帰できるためには、 (1) 具体的な課題の設定と、内発的な関与 (2) その課題を承認する社会的文脈 (3) 関係への欲望をお互いに承認できる、具体的な個人 などの…

積極的離脱とひきこもり

ネットには少し前に復帰していたのですが、ブログからもメールからも開放された状態があまりに快適で、しばらく意図的に離脱していました。(何年ぶりだろう) ひきこもるしかなかった時期には、自分を社会から切断するしかできない状態がひたすら苦しかった…

復帰

PCを修理に出していました。 この間 考えていたことを、数日に分けていくつかメモしてみます。 今後もこのように、ひきこもりに関する焦点を、里程標としてメモしてみようと思います。更新頻度は落ちる(あるいは気まぐれ)と思いますが、更新そのものを義務…