シナリオ通りの当事者と、関係性への加担責任

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家族会の関係者から伺ったところによると、この番組での各人の発言には事前に用意された内容があったようで、「当事者にシナリオ通りのことを言ってもらった」ということのようですね。もちろん事前に話し合いはあったでしょうし番組の都合上そういう形にするのはいいとして、それならそれで但し書きなり何なりをつけるべきではないでしょうか。いかにもご本人が自分で語ったように演出しながら、しかしそうではなかった、ということなら――斎藤環氏のいう《ご本人の欲望》は、どこへ行ったんでしょうか。

この番組が端無くも体現してしまったように、社会参加においては、必ず誰かの欲望に巻き込まれ、それに服従しなければそもそも参加すらさせてもらえない――そういう要因についてこそ論じるべきでしょう。*1

ひきこもっている状況は、それ自体が社会のいち部分であって、「社会の外」ではありません。ならば、そのすでに生きられた欲望の関係性をこそ工夫するしかない。そして、その工夫の作業を共有できる関係性が広がらなければ、生き延びることは難しい。せいぜいが一方的に子供扱いされて終わりです。*2

支援の場では保護される対象であっても、自分たち自身で関係を築き始めれば、そこには必ず軋轢が生じるし、立場の違いも出てきます。そこにこそ照準していただかなければ、試行錯誤を扱ったことになりません。

たとえば私が斎藤環氏から不当な排除の暴力を受けたとき、ひきこもり当事者を自称する人たちは誰も声をあげてくださらなかった。私からすれば、それは不信の理由になるわけであって。

「ひきこもり当事者」を名乗る人は、親や支援者に抗議する主体であると同時に、不当な状況に見て見ぬふりをする人でもある。一方的に「配慮してもらう」のではなく、自分自身が配慮やケアの主体でもあることを考え始めるのでなければ、対等な関係になりません。

支援される側も大人であり、不当な状況の担い手となっている。逆にいえば、医師や学者が別格の地位にあるわけでもない。*3

ひきこもる状況は、それ自体が社会のいち部分なので、ここをどういう考えでやりくりするかは、まさしく思想や立場の問題になります。医師もたんに一個人にすぎず、あるいはいかなる肩書があろうとも一方的に上位に立つことなどできないはずです。

シナリオ通りに話をさせることは、話し合いの結果であれば必ずしも上下関係とは言えないと思いますが、しかしそういうやり方でのみ参加を許される企画であったことは言わないと、番組や支援の参加ロジックが隠されてしまう。私はかつて斎藤環氏との往復書簡に参加させてもらいましたが、私の欲望は顧みられず、斎藤環氏の主張をありがたがる役目でしかなかったわけです。だからわずかに反論を試みただけで排除された。

ひきこもる人の《欲望》をくり返し口にする斎藤環氏は、私の欲望を全否定し、それを政治的排除の口実にしました。つまり彼は、「俺に反論するやつは関係性に入れてやらない」という態度をとったわけです(それが彼の欲望だった)。ここで私が経験したいきさつは、ひきこもり問題の決定的な核心部分にあるはずです。つまり、ひとは周囲の欲望に巻き込まれて生きるし、その中での政治的排除を通じて引きこもってしまうことがある*4。それを棚に上げて欲望云々の引きこもり論をされても、シラケるだけです。

医師・学者・取材者等は、一方的な観察者として語るかぎり、自分が関係性を規定する加担者であることを忘れています。そこで「ひきこもり当事者」は、いわばレッテルを貼られた家畜のようなものでしょう。――このままでは、悩む本人が作る信頼関係は《与えられた同じ枠》にとどまり続けます。関係における自分の当事者性を棚に上げる医師らの語りと、一方的に観察対象にされることである種の特権(被差別ポジション)に安住する人たちの共依存

ここでは「当事者」という語を連呼すればするほど、誰も当事者意識をもたなくなります。つまり、誰もその状況への加担責任を考えなくなる。

ここで吟味されているのは単に引きこもり云々ではなく、マイノリティ談義(政治的正しさ、ポリコレ)の発想そのものでしょう。社会参加を吟味せざるを得ない引きこもり論は、さまざまな社会問題の入り口になりますが、とりわけここではその《語りかた》を通じて、弱者へのアプローチのありようそのものが問われています。誰かを「ひきこもり」というカテゴリに監禁して対象化するこの暗黙のシナリオを、集団的に書き替えられるかどうか。マイノリティ談義に加担してしまった私は、ずっとそこで考えざるを得ません。メディア関係の皆さんが、そこに注目してくださらないかどうか。




*1:家族内でも就労現場でも、私たちは誰かの欲望に取り巻かれている。

*2:社会保障で全員を救うことはできないのですから、これ「だけ」では自滅の道です。

*3:そもそも社会参加が問題となっている場で、たとえば医師にできるアドバイスは極めて限られるはずです。身体組織の技術者は、社会参加や人間関係については専門性を持ちません。

*4:2001年の拙著『「ひきこもり」だった僕から』で、私はこの論点に触れています。ひきこもり状態には「政治的敗北」という要因があると。