和樹と環のひきこもり社会論(57)

(57)【順応状態の完成より、手続きの整備を】 上山和樹

 私は、「役割を固定すること」そのものの害を問題にしたのであって、「ひきこもり当事者が医者を告発する」という凡庸な図式を再演したのではありません。また、「役割の非対称性を外せば、動機づけができなくなる」というのですが、人を役割に還元するのは、自分や相手を物として扱うことでもあり、選択肢の一つにすぎません。(医者の面接室を訪れた人を事後的に見れば、「非対称性を求めている」人が多いのは当たり前です。)
 私の議論が「自分の実存問題になっている」とおっしゃるのですが、逆にいうと斎藤さんは、ご自分の順応問題を排除しているのです。この往復書簡が始まってすぐのころ、斎藤さんはカフカ掟の門(『カフカ短篇集 (岩波文庫)』所収)の話をしてくださいましたよね。当時は気づかなかったのですが、この時すでに、決定的なポイントが記されています。斎藤さんは「掟の門」を、ひきこもる人の直面する「社会への入口」と解釈されたのですが、これはご自分は「門の向こう側」にいて、社会に参加できた状態を生きている、ということです(カフカの作品では、門の中に入れないというのに)。
 「門の向こう側」には、完成した順応状態があるのですか? それでは、まるで「死後の世界」です。社会に参加するとは、順応状態を完成させることではなくて、「トラブルに合流する」ことでしょう。とすれば引きこもり状態は、それ自体がトラブルであることにおいて、すでに「社会を生きて」はいるわけです。私たちが為すべきなのは、未来の順応状態を押しつけることではなく、この独自の事情をもつ揉め事のために、またその後に継続される不利な社会参加のために、《介入の手続き》を整備することではないでしょうか。誰かを特別扱いしたり、一方的な力関係を放置したりするのではなく、あくまで《手続き》の整備です。それは、関係者の誰にとっても着手のきっかけになり得ると信じます(大文字の「ひきこもり」を論評しても、論じ手のアリバイ作りをしているだけです)。――私は、ご自分の社会順応を「完成した」と思い込んだ人たちに、恒常的な《紛争当事者》になることをお願いしているのだと思います。つまり、「順応のあり方について、目の前で考え直してほしい」と。
 私と斎藤さんの対立は、高年齢化によって「あきらめ」ムードの強まるひきこもり業界への、アプローチの違いでもあると思います。斎藤さんは、患者さんを特権化して守ろうとしている。私は、「本人たちが取り組む手続き」を、最優先に検討している。実際には、その両者が議論を続けながら、状況を整備していくべきなのだと思います。その意味でも、往復書簡を中断されてしまったことが残念でなりません。またどこかで、対話の機会をいただけることを願っています。――ここまでお付き合いくださった読者のみなさん、本当にありがとうございました。斎藤さんも、読者のみなさんも、どうかお元気でいらしてください。