和樹と環のひきこもり社会論(53)

(53)【役割フレームへのひきこもり】 上山和樹

 20年以上も臨床を続けておられる斎藤さんに、わざわざ「観客席にいる」と申し上げたのは、もちろん自覚的なことです。これは、「体は現場にありながら、問題意識はその場に同席していない」という意味ですが、それなら「同席」について、もっと説明が必要ですね。失礼しました。
 斎藤さんは、医学でいう「基礎と臨床のちがい」をおっしゃいました。斎藤さんは臨床におられるので、生物学的病理を研究する基礎医学をされているわけではない、だから「観客席にいるのではない」という意味だと思います。しかしそのお話を引き継いでいうなら、私には斎藤さんが、生物学とは別の意味で、考察そのものにおける基礎研究をされているように見えるのです。
 つまり、臨床現場にありながら、問題意識はその場に内在するのではなく、思考の課題は、その場所から切り離れている。ご自分が参加されている臨床に流れる時間と一つになってその場を工夫するのではなく、臨床の時間を外部から眺める超越的な目線を保っていて、現場から「知恵を導こう」とされている。
 これは、斎藤さんが「医師-患者」という役割を固定して、そこから一歩も動こうとしない態度にあたります。お互いの役割が超越的に固定されているので、その関係についてはいっさい分析されない。枠組みを固定したうえで、それぞれの課題が決められている。いわば、メタ的な役割フレームの共有において場を共有しているだけで、フレームそのものを分析する作業を共有することは許されていません。私はそのことに、強い苦痛を感じています(無理やり斎藤さんのひきこもりに付き合わされている感じです)。
 斎藤さんは、「医師」という役割に固着したまま、基礎研究的な理論やアイデアの研究に没頭しているように見えるのです。――自分の参加している関係を置き去りにして、抽象的な閉じた正当化に閉じこもる思考のことを、私は「メタ的」と呼びました。逆にいうと、私が求める「メタ的ではない」思考とは、自分がすでに生きているフレームを直接分析して、そこに介入するような思考です。