和樹と環のひきこもり社会論(51)

(51)【「自明の前提」の前に】 上山和樹

 「前提としている基本的な発想」というのは、自分の正しさを確認するスタイルの話です。ちょっと変なたとえですが、斎藤さんはいわば、机に座って物理学の問題を解いている。そこでは、正しいか間違っているかは、実験観察と数式のチェックで済みます。でも私は、「机の並び方がまずいかもしれない」「そもそも斎藤さんは、そこに座ってていいんですか?」みたいなことを考えている。
 それは、私と斎藤さんだけの間にあるすれ違いではなくて、斎藤さんが体現する正当化のスタイルは、もっと大きな時代というか、今の社会で生きられている思想そのものだと思うのですね。――私は、時代に支配的な「正当化のスタイル」自体が、ひきこもりを助長していると考えています。苦しんでいる本人も、いつの間にかそれを踏襲してドツボにはまる。
 これまでの数通のやり取りは、支離滅裂に見えたかもしれませんが、私はずっと同じモチーフを扱っています。「斎藤さんは観客席にいる」とか、「お互いのポジションが決められている」とか。斎藤さんがご自身を正当化しようとする努力は、いつも《抽象的な理論》のレベルにあって、目の前の私は置き去りです。前便で書いてくださった「自明の前提」は、私も検討はします。でもその前に、どうして斎藤さんは、いきなり「ひきこもりのメタ理論」に行ってしまって、この往復書簡そのものに機能している前提や力関係を考えてくださらないのでしょう。困難は、この関係にすでに経験されているはずなのに。
 私は、臨床現場にいる斎藤さんに、あるいはご家族や支援者の方々に、目の前の困難をこそいっしょに考えてほしいのです。抽象理論の正しさを確かめるような臨床ではなくて、目の前の関係や社会の状況を、いっしょに相談して組み替えてしまうような。ひきこもりを続けるにしろ、社会復帰を目指すにしろ、そんな相談が共有できるような環境が続かなければ、本人や、あるいは問題を引き受けてしまった誰かが、孤立して悩むしかなくなります。