和樹と環のひきこもり社会論(41)

(41)【当事者という言葉】 上山和樹

 やや迂回に聞こえるかもしれませんが、「当事者」という言葉の使い方をていねいに考えることが、コツや手続きの話になると思います。
 ふつう当事者というと、苦しんでいる「本人」を指します。治療や支援はその本人をめがけて設計されるし、仕事のテーマがひたすらその人のことしか見ていない。「ひきこもり当事者本」というと、ひきこもっていた本人が「私はひきこもっていました」とカミングアウトして、自分のことを語るわけです。「この人は、支援される側なんだ」という役割分担がはっきりしていて、それは一歩間違えば、くだらない自意識や、理不尽な特権化につながります。
 斎藤さんのおっしゃる操作主義は、この「本人」を思い通りにしようとすることでしょう。そういう目線を本人が自分に向ければ、どんどん自意識の悪循環(再帰性)が強まります。
 最近、斎藤さんの新刊『思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)』を読ませていただきました。そこであらためて印象的だったのは、斎藤さんのひきこもり支援論が、本人自身への働きかけというよりは、膠着状態全体への働きかけであることです。
 私はこれまで、自分を「ひきこもりの当事者」というポジションに設定した上で、メタに考える努力を続けてきました。しかしそこでは、この考察の枠組み自体が、私を「ひきこもり」という膠着状態に閉じ込めています。まただからこそ、「あいつはすでに引きこもりではない」という話にもなる。
自分を当事者として役割固定する視線は、「自分をきっかけにする」という意味で転移(動機づけ)には成功していても、自由にしていく方向がありません。またそれは、本人がうまく責任をとる方向でもない。枠組みを固定して、ひたすら自傷行為を続けるような当事者論です。
 最近の私は、膠着状態そのものを組み替えるために、関係者の全員を「当事者」と考え、その内側から交渉関係を試みる当事者論があり得ないものか、考えるようになっています。