和樹と環のひきこもり社会論(39)

(39)【作業場の苦しみ】  上山和樹

 斎藤さんのおっしゃる通り、苦しみに取り組むためには、まずその苦しみに名前がつく必要があると思います。政策レベルと個人レベルの問題とは切り分ける必要がありますが、ある苦しい状態が「ひきこもり」と名づけられ、何らかの努力の対象となったときに、それがカテゴリーとして実体化される。斎藤さんはそのことについて、「言葉=名前が現実を構成する」とおっしゃるのですが、このあたりの論じ方に、私の斎藤さんに対する疑問も集約されます。
 どうして斎藤さんは「言葉=現実」を、すでに構成された結果からしか論じてくださらないのでしょうか。斎藤さんはいつも「あとからやってきて」、与えられた現実を論じます。名前のない苦しみに言葉=現実を与えても、それを「あとから」分析してみせるだけ。しかしひきこもりの苦しみというのは、一人ひとりのレベルでの、「言葉=現実」を構成しようとしてできない、そのプロセスの苦しみであるはずです。作業場の着手と手続きの問題にいちばん苦しんでいて、その結果としてひきこもるしかなくなっているのに、斎藤さんはその苦しみそのものについては、ほとんどヒントをくださらない。
 たとえば斎藤さんはひきこもる人に、映画や本を勧められますが、それは端的に「オススメされている」だけで、うまくいくかどうかは偶然にゆだねられています。それはいくら穏便に見えても、順応すべき枠組みの選択肢をポンと提示して、あとは「順応してみせなさい」と言っているだけです。あるいは斎藤さんは「とにかく欲望を持ってくれ!」とおっしゃるのですが、ぐうぜん成功した欲望を「あとになって」論評することはできても、まだ着手できないで苦しんでいる人に対しては、選択肢を並べて「せき立てる」以上のことができないのではないでしょうか。しかし、コツや手続きも提示せずに「とにかく欲望を持ってみせろ」というのは、それ自体が再帰性の温床です。